女性ロックバンドSHOW-YAが8日、40周年記念カバーアルバム「無限」をリリースする。30周年から続く流れをくむカバーアルバムだが、今回は昭和~平成の名曲をSHOW-YA風のロックにアレンジした。女性バンドの先陣を切り続けるSHOW-YAのボーカリスト寺田恵子(62)が、アルバムに込めた思いを明かした。また、40年を振り返り、数々の伝説の真偽も確認しつつ未来への展望も語った。【川田和博】
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-40年、一言では言い尽くせないと思います。8月31日のデビュー日記念ライブで、中村美紀さんがおっしゃっていた「本当に帰ってきたね」が印象的でした。
寺田 「帰ってくるべき場所」なんて私、言ってたんだ、とか思ったけど(笑い)。
-SHOW-YA脱退の真相は?
寺田 最後のライブは91年2月、愛知・勤労会館だったと思うけど、やめようと思ったのは、その前の年で、最後のレコーディングの途中。ロスでレコーディングしてたんだけど、スタジオで「やめよ!」って思って、電話したんです。
-その「やめよう」と思った理由は?
寺田 まあ、理由はいっぱいあるんだけど。ちょうどその時にアメリカデビューに向けて、向こうで生活をしていたんです。向こうで活動しようという話も出ていたんです。でも、言語の問題もあるじゃないですか。そういう心配もあったし、身体的にもすごくきつかった。当時の「売れる」ってことが「こんなに大変なんだ」っていうくらいで。寝る時間も惜しんでいろんな仕事もするし、曲も書いていた。だから、睡眠時間もすごく少なかったし、音楽から離れた生活というのも全くできなかった。寝ている時も曲を書いたりとかしていたから。寝ながら曲が思い浮かぶとカセットにとっておいて、「続きが見られますように」って祈ってね。それで曲の続きをまた夢の中で見て、起きて書いたりをやっていたので肉体的にも、精神的にも、だんだん追い詰められていったのかな。
-世間的には、メンバーとの音楽性のズレもあったとのことですが?
寺田 確かに、若干のズレも感じていた。だから「アメリカに行くんだったら、英語がしゃべる人のほうがいいんじゃない」って思いながら、自分の中で終止符を打つんですけど、その1年半ぐらい前からずっと「ゼロ」ってキーワードが頭の中に浮かんでいたんです。何かにつけて出てきて、「このゼロは何だろう?」って。一生懸命探してる時に、最後のレコーディングで「やめなさい」って聞こえてしまったんだなぁ。それで、聞こえた瞬間にスタジオを出て日本の事務所に電話して、「すみません。やめます」って。
-唐突に? 事務所も大変だったんじゃないですか
寺田 事務所だけじゃなく、レコード会社もね。「やめるかもしれない」って話し合いをするんじゃなくて、私が1人が抱え込んで「もしもし、やめま~す」だったので「すぐ帰って来い!」でした。ロスから1人で飛行機に乗って東京に戻って、社長からは「話し合おう」って言われたけど、もう答え出ちゃってるんで。揺るがないから、話すも何も、もう答えは出てるって。
-衝動的にも聞こえますが、寺田さんの中ではずっと向き合っていた?
寺田 そうですね。だから「SHOW-YAをやめたら、もう音楽は2度とやらない」って、その時は思っていました。
-でもその後、ソロで活動をしています
寺田 そうなんですよ。だから、「ソロになるためにバンドをやめた」って思われがちなんです。一般的に。でもそうではなくて、本当に私の中ではSHOW-YAが全てだったんです。だからSHOW-YAをやめたら音楽をやる資格はないと思っていたし、そう思った瞬間から音楽を聞くのが苦手になってしまって。やめてから実家にいたんですけど、テレビでCMソングが流れてくるだけでチャンネル変えたりとか、もう、そこまでだったんです。だから、私の中で音楽人生は終わったと思っていました。
-それがどんな経緯でソロ活動につながったのでしょうか
寺田 実家に帰ったけど、そのまま何もしないわけにいかないじゃないですか。だから、就職しなきゃと思って、履歴書を書くんです。大学卒業まで書いたけど、そこから先「なんて書いたらいいんだろう?」となって。
-SHOW-YAと書けば…
寺田 SHOW-YAを出したくなかったんですよね。だから、家事手伝いかなって。本当に就職するつもりだったから、とりあえずバイトから始めてみようと思って。年末までゆっくりして、年明けに就職しようと思っていたんです。そんな時、たまたま友達から電話があって「飲みに行こう」って誘われて。カラオケで勝手に「限界ラバーズ」を入れて友達が「私が歌うから!」とか言っていたのに、歌い始めたら途中で「分からないから歌って!」って腕を引っ張られて。それで一緒に歌ってるうちに楽しくなっちゃって。でも、涙がバーって出てきて。ボロボロ泣きながら「やっぱり歌っていいね」って思ったのね。でももうやめちゃったから、私には縁のない世界だって思っていたんだけど、その3日後くらいに「戻ってこい」って電話があって。今の事務所ではなく別の事務所なんですけど。
-それで戻った?
寺田 「でもなぁ…」と思ったんだけど、「海外では国民に愛されているすごいアーティストがいて」って。ちょうどクイーンのフレディー(・マーキュリーさん)が亡くなった年だったのかな? それで「1週間ずっとラジオでも、テレビでもクイーンが流れているんだ。俺はそういうアーティストを作りたいんだ。だからお前が必要だ」って言われて戻ったんです。
-つまり、一般的に言われている、ソロをやるためにやめたわけではないではないんですね
寺田 はい。本当にそれが事実なんだけど、なぜかソロになるためとか思われているんですよね。もう本当にSHOW-YAと心中するつもりで組んで、活動していたから、まさか自分が1人だけ抜けちゃうっていうのも、自分でも想像してなかったし、やめた時は本当に音楽と縁を切るっていう形で切ったつもりだったんだけど、またこの世界に「戻された」って感じなんです。だから、あのタイミングがずれていたら、多分戻っていないですね。
-ある意味運命的だったわけですね
寺田 自分がレールを敷いているというよりも、ある程度決まったレールがあって、自分の人生がそのレールを外れても、またそこに戻ってくるんだったら、もうここで骨をうずめようって。そう決めて戻ってきました。
-SHOW-YAに戻る際、メンバー1人1人の説得に5年かかったという話もありますが
寺田 本当ですね。00年だったかな。その前、95年に阪神・淡路大震災があった時、チャリティーをやりたいなと思って。それで一緒にやってくれないかって1回電話を入れてるんですけど、断られまして。その頃向こうにはちゃんとボーカルがいたので、だから「申し訳ないけど恵子とはできない」って。「こっちはこっちでやるし、恵子は恵子でやって」って言われて、「あっ、そっか。しょうがないね」って。でもそこからちょっとずつ意識するようになったんですよ。SHOW-YAを。
-SHOW-YAは98年に解散。00年からメンバーの説得に入った?
寺田 そうですね。本格的にメンバーに声かけを始めたのは00年。私の中ではバンドを再結成するっていうよりも、一緒に音楽をやっていきたいと思って。05年まで5年かけて「Yes」をもらえなかったら、諦めようと思っていたんです。ダラダラしても仕方がないので、自分の中で区切りをつけた。そこからは毎日のように電話したり、朝までお酒を飲んで、うんっていわないかなとかね。それで04年に「とりあえずスタジオに1回入ってみない?」って、スタジオに入るところまでこぎ着けるんです。みんなすごく笑顔で演奏できて、手応えはあったかなと思ったんだけど、それでもダメで。最終的にはメンバーに「もうこれで最後にするから」って言って、泣きながら「どうなの?」って言いましたね。
-その間、メンバーから言われてつらかったことはなかったですか?
寺田 それはなかった。だって、突然私がやめるって言い出して、話し合いもさせずに、もう有無も言わせずにだったから。
-確かに自分から飛び出しておいて「戻りたい」は、勝手といえば勝手かもしれませんが…
寺田 まあ、実際にそうなんですけど。誰かに相談していたとか、メンバーに「実はこうこういうことで悩んでいて」とか、そういうのを一切誰にも言っていなかった。自分の中で勝手に悩んで、勝手に結論出して、シャットアウトしちゃった。だから、メンバーにとって、私ってすごく嫌なヤツのはずなのね。裏切り者的なぐらい嫌なヤツのはずなんです。だから、辛いっていうのはなくて、自分の中で「それはないんじゃない? 言われて当然だろう」と思っていた。「やっぱり信用できない」とか、いろんなこと言われたけど「全くその通りでございます」と思っていた。
-何を言われても受け入れる覚悟だった?
寺田 だってそれくらいのことを、私はみんなに対してやったから。信用できないっていうのも、嫌われたりするのも、仕方がないって思っていた。自分が信用を取り戻すためには一生懸命に謝るしかない。だから、ひたすら謝ったし、そこから先のビジョン、こうことをしたいとかも話した。



