宮川大助・花子、闘病生活で強まった絆 もう1度NGKで夫婦漫才を

妻・花子の闘病とリハビリ。「芸のためなら女房も泣かす」初代・桂春団治の生き様に心酔する大助に変化が・・・。「大花漫才」復活への思いに迫る。

おもろいで!吉本芸人

三宅敏、村上久美子


4月から毎週木曜日にアップしている「吉本の日」。第2回は、ベテラン漫才師へのインタビューです。夫婦漫才コンビの第一人者、宮川大助(72)花子(67)。かつて胃がんを克服した花子は、19年6月に血液のがんの一種、症候性多発性骨髄腫と診断され、闘病とリハビリを続けている。夫婦はどう助け合い、何が変わったのか。結婚から46年が過ぎた2人に「いま」「これから」を聞いてみた。

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2019年(令元)6月、緊急入院。「多発性骨髄腫。余命1週間」を宣告される。かねて痛みや体調不良を自覚しながらも、病院へ行かず、深刻な状態まで悪化していた。

もともとは、さらにさかのぼって18年3月、マラソン後に腰の痛みを訴え、病院で検査したところ、背中に腫瘍があった。当時も、別の臓器などからの「転移なら余命6カ月」と診断されていたが、転移ではなかったため、余命宣告は間違っていたことが翌日には分かった。

腰の腫瘍は放射線治療が奏功したものの、19年1月には再び体調が悪化。ただ化学療法へなかなか踏ん切りがつかず、両足のしびれが進み、下半身不随状態になるまで進行していた。

結果、19年6月24日に倒れ、救急搬送。第3胸椎に7センチ、眼球付近に5センチと、全7カ所に腫瘍が見つかった。右目上の腫瘍の影響で「右眼の眼球が飛び出しているような状態」(大助)だっという。

「余命1週間」。衝撃な見立てに大助も言葉を失った。ただ、これは「このまま放置していれば」の話。すぐに治療方針の相談がなされ、抗がん剤治療もスタート。寛解へ近づく中でリハビリの強度も上げていった。花子の闘病生活を通じて、夫婦の絆は新たなものに生まれ変わった。

大助 10カ月の入院中、毎日病院まで通いました。クルマを運転している間、病室で苦しんでいる嫁はんのことを思い浮かべて、僕はずっと泣き通しですよ。なんで、もっと元気なうちに大事にしてやらんかったんや! と、後悔ばかりでした。

揺れる思いで40年を超える夫婦生活を振り返っていた大助は、病院に着くと同時に涙を隠して舞台で見せるような笑顔になった。

病室の花子を見ると、いつもと変わらぬ表情で冷蔵庫に果物を入れたり、身の回りの世話を始める。悲しみを心の奥にしまいこんだままで。

花子 大助くんは、いつもにこにこ笑顔でした。自分も腰が悪いのに毎日毎日、クルマを運転して病院まで来てくれるのがうれしいやら、申し訳ないやら。夫のこんな姿を見ていたら、重い病気とはいえ、簡単に死ぬことはできないと思った。夜、寝る前は「明日の朝を生きて迎えられるやろか?」と不安でしたが、大助くんの気持ちに応えるためにも「いや、必ず生きて起きるんや」と自分に言い聞かせました。

病気でどんなにつらい状況にあっても、花子は「死にたい」と思うことは一度もなかったという。「死ぬことほど、つらいものはない」。これが、花子の偽らざる本音だ。

抗がん剤治療は効果が見込める一方で、体には強いショックを与えてしまう。そして病院スタッフの協力を得て懸命のリハビリ。平たんではない入院生活だったが20年4月、晴れて退院の日を迎える。

とはいえ、自宅に戻ってもリハビリは欠かせない。トイレに行くにも1人ではできず、誰かの助けを借りなければならない。

そこで大きな力となったのが、ひとり娘で長女のさゆみだった。それも、ただ、母親の手となり足となるだけではなかった。

さゆみは、洗濯物をたたむなどのミッションを母に与え、花子に「じっといているだけでなく、何かやらなきゃ」という心の張りをもたらせた。

心配する大助が「もっと手助けしてやれよ」と声をかけても「できることは少しでも自分でやらなきゃ。でないと、いつまでもできないままになってしまう」と、さゆみは時に母を突き放すこともあった。

しかし、大助、さゆみら家族の助けもあって、花子は徐々にハサミを使えるようになり、食事の時には箸を使う練習を行えるようになった。

おりしも時代はコロナ禍。もともとは弟子や親しい友人、後輩芸人らが集まるのが常だったが、距離が必要になった。弟子もなかなか、近づけない。長年、家事の世話をしてくれている親族同様の女性も、昼間は来てくれるが、夜の自宅は家族だけになる。

花子をトイレに連れて行くのも、大助の役目。そのためベッドで眠る花子の隣で、床にマットを敷いて大助は寝ることにしている。

大助 抗がん剤は今もお世話になっていますが、あれは体力を奪われるんです。その時はよほど嫁はんも疲れていたんでしょうね。脱水症状のような感じで、トイレで動けなくなったこともありました。

花子 ほんま、感謝しかないです。介護男子の鑑(かがみ)です。先日、PET検査でがんの具合を調べてもらったんですが、体から腫瘍が消えてたんです! すごいことです。再発しないように、まだ注意しないといけませんが、病院の方、仕事関係の方、すべてに感謝したいです。

3月半ばには「寛解」状態になった。この状態をいかに長く維持できるか。状態が悪くなれば、また寛解を目指しての治療になる。ただ、薬の種類についても、年々、進歩している。花子は「負けてたまるか!」と、闘志満々だ。そして、肝心のしゃべりは…闘病前と遜色ない達者ぶりだ。

血液のがんの一種で闘病中であることを発表した宮川花子(左)と宮川大助(2019年12月撮影)

血液のがんの一種で闘病中であることを発表した宮川花子(左)と宮川大助(2019年12月撮影)

2人が結婚したのは76年4月。夫婦で漫才コンビを結成したのはその3年後だった。早口でしゃべりまくる花子と、花子に押されまくる大助という名コンビはその後、売れっ子となり、上方お笑い大賞、上方漫才大賞などに輝く活躍を見せた。

もともと、滑舌が悪かった大助の個性を生かし、逆転の発想で生まれた「大花漫才」は唯一無二だ。

漫才としては名コンビである、その裏で夫婦としては価値観の違いがあった。「芸のためなら女房も泣かす」で有名な初代・桂春団治の生き様に心酔する大助。逆に花子は「家族が一番」「大助くんは私の夫。漫才の相方だと思ったことはない」と春団治の妻とは正反対だった。

夫婦漫才を始めたころ、連日、自宅近くの公園で猛稽古。花子は「のどから血が出るほどって言うけど、ほんまに出んねんで。のどから血!」と振り返ったこともある。けんかも絶えなかった。

そんな隙間も、花子の病気がきっかけで大助が考えを改めた。以前、花子が胃がんを患ったが克服。後年には大助が脳内出血で倒れた。それでもNGKのセンターマイクへ帰ってきた。そして今度は、花子が再び病に倒れた。

大助は、花子の世話を焼きながらも「妻が元気なうちに大事にせなあかん」「もし生まれ変わることがあれば、もう夫婦漫才はしない」。花子に寄り添う日々だ。

こうした家族の愛に支えられ、花子は少しずつではあるが、前進している。口と頭は「変わらず元気」と笑う。それゆえ、講演へのオファーも多く、徐々に仕事復帰に向かっている。

4月3日には吉本興業創業110周年特別公演「伝説の一日」でホームグラウンドなんばグランド花月(NGK)に出演した。

今後の大きな夢としては、夫婦漫才コンビ「大助・花子」としてNGKに復帰することがある。「寛解」はあっても「完治」のない病気と知り、花子は実は、いったん「NGKで漫才」をあきらめかけた。

だが、北京五輪・パラリンピックで躍動する選手を見て、自らを恥じて、決意を新たにしたのだった。

花子 もし許されるなら、車いすで舞台袖まで行って、そこから大助くんに手を引いてもらってセンターマイクまで歩いていく。そんなことを考えています。でも、現実としてはまだまだ遠い。体もまだ十分に動かないですし。私、自分をパラ芸人言うてんねんけど、そう、パラ芸人になります!

東京、北京のパラリンピックをテレビ観戦し、アスリートの競技に心を打たれたという。

花子 選手の皆さんが、どんなに頑張っておられたか。その根性には「すごい!」としか言葉が見つからなかった。私と同じ病気と闘っている人もいるだろうし、私が病人の方から励まされることもある。今の私ができることで発信していければ。

入院中も花子は発声練習を欠かさなかった。それは芸人として復活したいという望みだけでなく、今できることを少しずつ積み重ねていこう-という思いからのことだ。

コツコツと書きためた「宮川花子闘病記 あわてず、あせらず、あきらめず」(主婦の友社)のタイトルこそが、今の2人の気持ちを表している。

リハビリ、治療を続けながら、闘病を振り返る宮川大助(手前)花子ⓒ吉本興業

リハビリ、治療を続けながら、闘病を振り返る宮川大助(手前)花子ⓒ吉本興業

★大助 母の教えが身に染みる

「大助・花子」の漫才では花子の早口に押され、口ごもってしまう場面もある大助だが、漫才歴では花子の先輩。漫才の台本を書いたり、実際の夫婦生活でもリード役でもある。

その大助は、著書の中で「嫁はんが見せる笑顔は最高で、僕も自然と笑顔になり、元気になる」と記しており、いまなお花子に心底から恋している様子がうかがえる。

また「病室で笑う嫁はんを見て、新しい嫁はんをもらっているような感覚がありました」と、若いカップルかと思えるような初々しい心境も打ち明けている。

こうした妻への愛情の背景には、自身の母親の存在があった。鳥取県境港市で生まれた大助少年は8人兄弟。実家は貧しく「家に帰っても食べ物がなかった」。自分でなんとか食料を調達しなければ。当時の大助少年は、近所の畑からスイカや野菜を無断で失敬するしかなかった。このため学校では教師からにらまれる存在になっていった。

大助 母親は何度も学校に呼び出されてました。卒業式の日、母親が先生に「お世話になりました」と土下座をしたんです。これまでの感謝や謝罪の気持ちを込めて。とんでもないほどヤンチャで周囲に迷惑をかけた息子のためにです。

苦労に苦労を重ね、息子たちを全力で育て上げた母親のことが大助少年は大好きだった。母のためにと、ドブ掃除や畑仕事も必死で手伝った。母を泣かせたくないとの気持ちは誰よりも強かった。

大助 嫁はんが胃がんになった時(88年)母親に言われました。「あんたの命を花ちゃんにやるんやで」と。僕自身、まさか健康だった嫁はんが胃がんになるとは想像もしなかったので、母親の言葉は頭をガツンと殴られた思いでした。今だからこそ「嫁はんは元気なうちに大事にせなあかんで」という母の教えは身に染みるという。

◆宮川大助・花子(みやがわだいすけ・はなこ) 大助は1949年(昭24)10月3日、鳥取県生まれ。花子は54年8月28日、大阪府生まれ。宮川左近の弟子だった大助と、チャンバラトリオの弟子だった花子は75年7月に出会い、10月には大助がプロポーズ。76年に結婚。78年3月、長女さゆみ誕生。79年夫婦漫才コンビ結成。80年のNHK上方漫才コンテスト優秀努力賞。以後数々の受賞に輝く。17年(平29)紫綬褒章。18年3月の寛平マラソンで花子が体調異変を訴える。病院で余命半年と宣告される。仕事と治療を同時に行っていたが、症状悪化のため19年(令元)6月緊急入院。抗がん剤治療、リハビリを重ね、20年4月退院。