池田向希(23=旭化成)がトップと9秒差の1時間21分14秒で銀メダルを獲得した。

池田から14秒遅れでゴールした山西利和(25=愛知製鋼)も銅メダルで続いた。競歩では16年リオデジャネイロ五輪の50キロで銅メダルを獲得した荒井広宙に続いて2大会連続、この種目では日本初のメダル獲得となった。高橋英輝(富士通)は32位。マッシモ・スタノ(イタリア)が1時間21分5秒で初優勝した。

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日本が競歩強豪国の道を歩んだ第1歩は、審判を強化したことだった。

競歩業界では“パリショック”とも言われる。03年世界選手権で、日本から5人の代表選手が出場したが、何と3人が失格に終わった。日本では歩型違反とならなくとも、海外では違っていたのだ。つまり国内の審判員の多くは国際基準ではなかった。国内基準しか知らない選手は、世界で戦える歩型でなかった。

「このままでは日本の競歩は結局ダメになる」。そう立ち上がったのが藤崎明さん(62)だ。まず海外から国際審判員に声をかけ、研修を開いた。そこでは筆記や動画による歩型違反判定の試験を実施。国際的な審判員なら「8割」は解答出来る内容だった。だが藤崎さん含め、誰1人その基準に到達できなかった。あらためて国際基準とは遠い事実が浮き彫りとなった。

さらに危機感は強まり、藤崎さんは競歩専門の審判員資格の制度を導入した。国際的な教材を使用した短期の育成セミナーを実施。海外から審判員を招き、「ロスオブコンタクトする選手は頭が上下動する」など、一流の審判員がどう選手を見定めているかを具体的に指導してもらった。そのセミナーを経験した人が大きな試合では審判をやるように。おのおので基準のばらつきもあり、世界と遠く隔たりがあった日本の審判の質は、徐々に世界との差が埋まっていった。厳しい審判の目をクリアした日本の選手は、世界でも戦えるようになった。選手側にとっても「審判がどこを見ているか」を知ることは、強化の助けとなった。

現在も日本選手権など海外から審判が来た時には、国際大会の映像を使った判定精度の確認、最新情報の収集が行われる。美しい歩型で強い。そんな日本競歩陣の裏には“最強”の審判員たちがいた。【上田悠太】