逆転の侍ジャパンが「福島の奇跡」を起こした。3大会ぶりに五輪競技に復活し、迎えた開幕戦の1次リーグ・ドミニカ共和国戦(あづま球場)。プロが参加した00年シドニー五輪以降、1勝2敗と鬼門とする初戦で大苦戦を喫した。継投失敗などで9回裏で2点ビハインドだったが、1死から執念の反撃を開始。同点セーフティースクイズを含めた、怒濤(どとう)の猛攻から、最後は坂本勇人内野手(32=巨人)が逆転サヨナラ勝ちを決めた。脈々と受け継がれる伝統の逆転劇を復興の地、福島で体現し、悲願の金メダルへ白星発進した。

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東京オリンピック(五輪)招致が決定する1年前の12年。田中将大は福島で、首に金メダルをかけていた。東日本大震災復興活動で福島市の大波小で野球教室を実施。全校児童10人からお礼に、切り抜いた折り紙にメッセージ入りの“手作り金メダル”を贈られた。

当時、田中将とキャッチボールをした阿部大樹さんは鮮明に覚えている。「軽く投げているのに捕れないくらい速かったです」。震災直後は放射能の影響で、外出もままならなかった。ストレスで、親に迷惑もかけた。憧れのスターとの10分間のふれ合い。日常の不安を忘れさせてくれた。

「地元の仲間と甲子園を目指したい」と進んだ福島商。3年夏にエースとして決勝で聖光学院に完敗。2回6失点で「いい区切り」と地元農協に就職した。

宝物がある。野球教室の後の質問会。「どうやったらプロ野球選手になれますか?」と聞くと「思いを持ち続けることが一番大事。その思いがなければなれない」と向き合ってくれた。その言葉は「野球の道にはいかなかったですけど、時々の目標に対して、その考え方は役立っています」と今も人生の指針だ。

金メダルを渡した理由は「正直、分からない」。周囲に聞いても答えは見つからないが「金メダルを取ったら不思議なつながりですね」と笑えた。大波小は17年に廃校となった。田中将は「復興という五輪のテーマもある。そこから始まっていくので良いスタートが切れれば」と福島での初陣に特別な意味を込める。試合前の君が代斉唱では静かに目を閉じた。初戦翌日の29日は阿部さんの21歳誕生日。粋な恩返しが生んだ“金”への糸は、9年の時を経て運命的に紡がれていく。【桑原幹久】