20年東京五輪で採用されるスポーツクライミングで、日本勢の強化が遅れ気味だったスピード種目の環境を整備する動きが広がっている。第一人者の野口啓代(29=TEAM au)は実家のある茨城・龍ケ崎市に、父健司さんの出資でスピードの壁を設置。弱点の克服に本腰を入れ始めた。五輪はスピードを含めた複合種目で争われるが、施設不足もあってこれまで満足な練習はできなかった。野口は自前の壁でメダル奪取を近づける。【取材・構成=戸田月菜】

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実家のスピード壁で弱点を鍛えてメダルを目指す。田んぼもまばらな龍ケ崎市の住宅地に、野口が生まれ育った実家がある。中学生の頃、もともと牧場を経営していた父健司さんが、家族でクライミングができるようにと牛舎の空きスペースにボルダリング壁を手作りした。野口の成長とともに傾斜の種類も徐々に増え、ついにスピード壁も設置することになった。

費用は健司さんが出資し、もともと駐車場だった敷地に設置される。「今までは練習環境がなかったことで、弱点から逃げていた。これで逃げられない。これからはスピードの練習も自分のペースでできる」と大歓迎だ。今後は日本で希少なスピード種目を専門に取り組む池田雄大(21=千葉県連盟)に、コーチを依頼する予定。「8月の世界選手権まであと半年。本格的に克服する」と燃える。

日本勢が本格的にスピード種目の練習を始めたのは17年秋。東京五輪が3種目の複合方式となり、経験の少ないスピードも必須となった。ホールドで体を押し上げて一気に駆け上がる力強さが要求されるため、ホールドの保持力を強みとする野口にとっては「どうしても弱点になってしまう」。昨季はスピードのW杯にも出場し、ジャカルタ・アジア大会や世界選手権でも複合を経験。「ボルダリングとリードで巻き返さなければならない戦い方になる。スピードで足を引っ張るのが悔しかった」。自由に使える練習環境の必要性を痛感し、昨季から実家に建設する計画を立て始めた。

日本勢が得意なボルダリングは、全国各地に多数ジムがあり、都内にも70軒以上と練習環境は整っている。リードも練習はボルダリングの壁でも可能だが、スピードは一筋縄にはいかない。壁もまだ全国10カ所ほどしかなく、選手の居住地から遠距離に位置する施設もあり、利用料もかかる。これまでも野口らの練習は東京・昭島市での代表合宿程度で、スピード強化のためにも自由に使える壁を必要としてきた。

壁の設置も容易ではない。スピード種目は国際規格にそったホールドを、全世界同じ配置で造られる。ホールドの輸入にも時間がかかり、ルートセッター(設計者)の監修も必要。スピード壁1レーンを設置するのに最低でも700万~800万円の費用がかかり、野口の実家のように土台から造る場合は1000万円を超えるという。野口の壁は現在、工事の関係で龍ケ崎市内の体育施設に仮設しているが今春以降、実家に移設する見込みだ。

10日に初開催されたスピード・ジャパンカップで野口は3位入賞。「苦手種目で表彰台に乗れたのでよかった」と胸をなで下ろし、さらなる強化を誓う。8月の世界選手権(東京・八王子)ではいよいよ東京五輪出場権がかかる。スピードの経験値を上げることが、メダルへの近道となる。

◆野口啓代(のぐち・あきよ)1989年(平元)5月30日、茨城・龍ケ崎市生まれ。茨城・東洋大牛久高卒。小学5年で競技を始め、小学6年で全日本ユース選手権優勝。08年のボルダリングW杯モンタウバン大会(フランス)でW杯日本女子初優勝。09、10、14、15年と4度ボルダリングW杯年間総合優勝。14年、16年の世界選手権同種目3位、18年2位。165センチ。

 

■スピードは競技として発展遅れた

日本山岳スポーツクライミング協会で、日本代表のスピード種目コーチを務める水村信二氏(54)は、日本女子のスピード強化の現状を「複合としてのスピードの強化は、この短期間で強化委員会の方針の下、効率よく進んでいる」と評する。東京五輪でメダルを取るためにスピード種目に取り組む必要が生じ、本格的な練習を開始した17年秋から約1年強。国内にはスピードの壁は皆無で、国内トップレベルの大会もなかった状況から、17年春に東京・昭島市モリパークアウトドアヴィレッジ内に4レーン、国内初の国際スポーツクライミング連盟公認施設が完成した。以降は徐々に練習できる環境も増え「今は国内に10カ所ほどある。やはり練習しないと速くならない」と指摘する。

日本はボルダリングW杯国別ランキングで4連覇中、リードも上位を占めるが、スピードは経験不足もあり、強くはない。日本協会が定めるスピード単種目での国際大会派遣基準タイムは、男子は6秒20、女子は8秒50。ともにW杯のスピード種目で予選通過可能な予想タイム。「今は単種目での強化は後れを取っているが、今後はスピード専門の選手と競ってもW杯で決勝に残れるようになることが目標」。10日のスピード・ジャパンカップでも基準を突破した選手は出なかった。

野口は18年の世界選手権の複合決勝、1種目目のスピードでフライングも響いて5位と出遅れた。ボルダリング、リードでも巻き返しきれず、メダルに届かない結果に終わった。メンバー6人の中でも「スピードの持ちタイムは低い位置だった。本人が一番分かっていますが、やはりスピードの強化が重要になってきます」と水村氏は分析する。

スピード種目の強化の遅れは、日本に根付くフリークライミングの価値観との違いもある。ボルダリング、リードは完登することが目標とされる一方で、スピードは完登が前提で速さを競うもの。「フリークライミングでは完登することに価値を置くので、スピードは競技としては発展してこなかった」。それでも「ボルダリングの強い選手はスピードに向いている」と話す。

 

◆スポーツクライミングの複合 20年東京五輪で行われる方式で「スピード」「ボルダリング」「リード」の3種目で争う。スピードはホールド(突起物)の位置が統一基準で定められ、高さ15メートルの壁を登るタイムを競う。ボルダリングは高さ3~5メートルの壁にさまざまな形のホールドが設置され、複数の課題(コース)に挑んで制限時間内の完登数を争う。壁の高さ12メートル以上のリードは、制限時間内での到達高度が記録となる。複合の総合点は、スピード、ボルダリング、リードの各種目の順位をかけ算して算出。点数の少ない順に複合の順位をつける。例えば、スピード5位、ボルダリング1位、リード3位ならば「5×1×3」で15点。同点で並んだ場合は、直接対決で勝っている回数が多い選手が上位となる。