混合ダブルス決勝で水谷隼(32=木下グループ)伊藤美誠(20=スターツ)組が、日本卓球界初の金メダルを獲得した。世界王者の許■(■は日ヘンに斤)(31)劉詩〓(雨カンムリに文の旧字体)(30)組(中国)にフルゲームの末、4-3で勝利。対戦成績0勝4敗だった強敵に、大舞台で勝った。水谷は16年リオデジャネイロ五輪から含め金、銀、銅、全てのメダルを獲得した。伊藤も2大会連続のメダルとなった。

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伊藤のロングサーブが無観客の静寂を切り裂く。奇跡を起こした準々決勝の最終サーブと同じだ。許の返球がネットにかかる。中国を倒して堂々の金メダル。歓喜の水谷が伊藤に抱きつく。同じ静岡・磐田市出身の幼なじみが、世界の頂点に立った。

水谷は「本当に、中国に今までたくさん負けてきて、東京五輪で今までの全てのリベンジができた。高い、高い中国の壁だが、五輪という特別な舞台では同じ人間なんだなと思った」と歴史の重みをかみしめた。一方の伊藤は「すんごくうれしい。最後まで楽しかった」と対照的に喜びを表現した。

水谷が第3ゲームで目覚める。積極的にフォアで強打し、許の体めがけて打ち込む。許は勢いに押され、ネットを連発。伊藤が許の回転数の多いチキータに苦しむ中、11歳下の後輩を助けた。

最終ゲーム。2人は完全にゾーンに入った。伊藤が男子世界ランキング2位の許にひるむことなくスマッシュを打ち込み、8-0に。男子代表の倉嶋監督は「普段以上の力。見たことがない」と評するほど。試合は決した。

水谷の父信雄さんが代表を務める豊田町卓球スポーツ少年団に伊藤が4歳の時に入団し、その頃からの幼なじみ。11歳下の伊藤だが敬語は使わない。遠慮が必要ない関係性がプレーにも好影響を与えた。

19年の大みそか、倉嶋監督は都内の喫茶店で水谷を迎えた。「調子はどうだ」とたわいもない会話から始まりつつ、本題は6日後に迫った東京五輪の代表発表に移る。16年リオデジャネイロ五輪まで水谷が主戦場としていたシングルス代表は、既に張本と丹羽が当確していた。

「全種目出たらさすがに大変だろう。混合に出て、全種目の五輪メダルを取る初めての日本人になればいい」。シングルスを逃した悔しさに配慮しつつ、新たなモチベーションを植え付けようと語りかけた。年が明けても同様に気持ちを注入していった。

水谷の豊富な経験が東京五輪に必要だった。女子のエース伊藤に合わせられる選手も水谷が適役。中国に勝つには伊藤の異質ラバーから繰り出される変化に富んだボールが必要。トリッキーな球を打てば返球も奇想天外な動きをするが「適応力は日本一」(倉嶋監督)という水谷なら、伊藤との最強コンビができると協会は考えた。

正解だった。「日の丸が一番上に上がり、君が代が聞けた。選手として最高の瞬間だった」と水谷。中国の壁を初めて超えた末の金メダル。ぼうぜんと立ち尽くし、涙さえ忘れていた。【三須一紀】

◆水谷隼(みずたに・じゅん)1989年(平元)6月9日、静岡県磐田市生まれ。5歳から父信雄さんが代表を務める豊田町スポーツ少年団で競技を始め、青森山田中-青森山田高-明大。07年全日本選手権シングルスを17歳7カ月で当時、史上最年少制覇。08年北京、12年ロンドン五輪出場。16年リオ五輪ではシングルスで男女を通じて日本人初のメダル(銅)を獲得し、男子団体でも銀メダルに輝いた。172センチ、63キロ。]

◆伊藤美誠(いとう・みま)2000年(平12)10月21日、静岡県磐田市生まれ。豊田町卓球スポーツ少年団で腕を磨く。15歳で出場した16年リオ五輪で団体銅メダル。18、19年の全日本選手権で3冠。19年世界選手権個人戦ダブルス銀メダル。世界ランキングが現行制度となった91年以降で日本勢最高の2位をマークした。大阪・昇陽高出身。152センチ。