重量挙げ女子59キロ級で安藤美希子(28=FAコンサルティング)が銅メダルを獲得した。

1カ月前に右足に重傷を負い、出場も危ぶまれた2度目の五輪。得意のジャークで意地の試技をみせて、スナッチとジャークのトータル214キロをマークした。リオデジャネイロ五輪女子58キロ級5位の後、韓国に拠点を移した成果を実らせた。日本女子では12年ロンドン五輪銀、16年リオ五輪銅の三宅宏実に続くメダルで、3大会連続の表彰台となった。

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意地。ジャークの3本目、挙げればメダルの120キロのバーベルを前にして、安藤の感情はそれだけだった。「120はできて当たり前。こんな重量を失敗したらしょうがない」。胸元まで引き上げ、顔を紅潮させて一気に頭上へ。耐えた。そして、耐えられなくなった。「もう右膝が痛すぎて…」。最後は突っ伏し、「ほっとしたのと、うれしいのとで」と体は震えた。

周囲の支えで起き上がると、右脚を引きずった。今月5日、同じ120キロを膝に落とした。腫れ上がる患部。骨に異常はなくても「終わったなあ」が本心だった。方々に治療に通い、練習できたのは1週間前。「当たり前」の重さは当たり前じゃない状況だった。「意地」しかなかった。

「だから、短期間で無理やりでも挙げられたのかな」。理由にしたのは17年2月、恩師の金度希さんを追って韓国に渡ったこと。日本選手で海外を拠点にするのは初の試み。リオ五輪前に指導を受け、この人ならと確信があった。就労ビザは取れず、拠点の大学近くにアパートを間借り。韓国語も分からず、買い物も一苦労。生卵だと思ったら、ゆで卵20個入りのパックだったこともある。1人でもがいた時間があったからこそ、苦境で技術は生きた。

「今日はあんちゃんの日だよ」。金コーチから試合直前に電話が来た。コロナ禍で昨年2月に帰国後は、韓国に渡れない日々。リモートで指導を受けながら、この日を目指してきた。一時は久々に実家に身を寄せ、母貴子さんの料理に「ご飯を作ってもらうのは楽だわぁ」と癒やされた。

体育教師になろうと埼玉栄高に入り、競技に出会った。仮入部中、80キロのバーベルを動かすと、周囲が「大喜びしてくれた」。フェンシング部と迷うと、母から「重量挙げの話している時が楽しそうだよ」のひと言で道は決まった。

「パリはもっとできるよ。パリまで頑張りなさい」「頑張ります」。試合直後に金コーチとは約束した。ただ、いまはこの喜びに浸りたい。体重の2倍以上の重さを、満身創痍(そうい)で挙げた後、メダルを手にしながらしみじみ言った。「こんなに重いものなんだな」。【阿部健吾】