夏の国内移籍市場で選手が動くのはJリーグだけでない。日本フットボールリーグ(JFL)の下に位置する地域リーグでも新たな補強があった。関東1部リーグに所属する東京ユナイテッドFCは、J3の福島ユナイテッドFCからGK上川琢(23)を育成型期限付き移籍で迎え入れた。
現在3位の東京Uにリーグ優勝の目はない。それでも半年間のレンタル補強を敢行した理由は、JFL昇格という目標に向けてのもの。10月下旬の全日本社会人サッカー選手権(32チーム)でベスト4以上に入れば、続く11月の全国地域サッカーチャンピオンズリーグ(12チーム)に進める。そこでさらに勝ち抜かなければならない熾烈(しれつ)な戦いが待っている。
■東京ユナイテッドで移籍初戦
上川は8月23日に移籍が発表され、チーム合流から10日ほど。その上川がさっそく、9月3日に東京・小石川運動場で行われた後期第6節・東邦チタニウム戦で先発出場した。
180センチとGKとしては上背がないが、シュート反応の速さは際だっていた。1-0とリードした前半アディショナルタイム。味方選手のファウルでPKを献上したが、相手シュートに鮮やかにセーブしてみせた。
後半は立て続けにピンチを迎えた。8分に相手ヘディングシュートをセーブすると、続く9分には右サイドからエリア内に進入されて打たれたシュートも体を倒してブロックした。
そして14分には、エリア外から目の覚めるような強烈なシュートが左上隅へ。これも瞬時に体を左へ飛ばし、左手一本ではじきだした。会場から「オーッ!」と声が上がるスーパーセーブ。Jリーガーのプライドが見えた。
しかし後半35分、右クロスから相手選手にボレーシュートをたたき込まれた。1-1の同点とされた。ただ、これは右クロスをゴール前、フリーの選手がボレーでゴール隅へ決めた鮮やかなもの。GKがどうにかできるものではなかった。
■早大時代以来の公式戦出場
試合は1-1のドローで終了。移籍初戦を勝利で飾れなかった。引き揚げてきた上川の表情は、満足感と悔しさが入り交じったものだった。
早稲田大から22年に福島へと加入。しかし1年半の在籍で公式戦への出場機会はなかった。大学時代の関東リーグ以来、2年近いブランクでの公式戦に高ぶる思いがあった。
「レンタル移籍という形で試合出場を求めてきた中、気合が入りました。合流して1週間半くらいですけど知り合いや同世代の選手が多く、積極的に声をかけてコミュニケーションを取りました。前半からPKセーブと、自分が積み上げてきたものは出せたと思います」
その上でドローという結果に「守ったのは多かったですけど、勝ちたかったですね。0か1かで違うので。試合を見てくれた人はナイスキーパーって言ってくれるかもしれませんけど、SNSで結果だけ見た人は1失点となる。Oか1か、その数字へのこだわりは強いです。止めた数は多かったですけど満足できない」と唇をかんだ。
■W杯2大会で活躍した主審
サッカーで「上川(かみかわ)」という名前を聞いて、勘の鋭い方なら気付くかもしれない。そう、この上川の父はあの上川徹さんなのだ。
2002年日韓大会、06年ドイツ大会と2大会連続でワールドカップ(W杯)の主審を務めたレジェンド。そのレフェリング能力の高さは世界でも折り紙付きで、ドイツ大会では3位決定戦のドイツ-ポルトガル戦の主審にも抜てき。ドイツの主将カーンからは「ナイス・ジャッジだった」と声も掛けられた。
お父さんのことを聞いてもいい? そう問うと、笑顔で「もちろんです!」。
「偉大っすね。それは自慢してもいいと思います。お父さんからは学ぶことは多くて。トップ・オブ・トップを見てきた人なので。オリバー・カーン、クリスティアーノロナウド、全盛期のベッカム、ジェラード。あの時(06年ドイツ大会)はまだ小1で実感はなかったですけど、分かるようになってからはその偉大さが、やべーなって。いい父のもとで生まれたと思います」
大学時代は時折、リーグ戦のスタンドに姿を見つけた。「何も言わず来るんですけど、オーラがすごくて分かっちゃいますね。存在感が…、隠しきれないですね。一般人じゃない何かが」と言って、笑った。
■「審判も本気でやっている」
父はレフェリーという仕事に矜持を持ち、家でも審判技術の向上に余念がなかった。そんな姿を垣間見てきただけに、レフェリーへの尊敬の念は誰よりも強い。
「ジャッジの映像を見たり、ディスカッションしたりと審判は大変ですよ。審判との接し方は普通のサッカー選手より、自分は意識をせざるを得ないです。自分たちは審判をやったこともないので分からないけど、ぶつかり合いとか、オフサイドとか(判定は)難しいし。リスペクトの気持ちは強いです。だから文句は言わない。決められたことは、その後に言っても何も変わらない。勝ちたい気持ちもあるけど、審判も本気でやっている」
この日の前半終了間際、相手にPKが与えられた。よく試合でPKとなると主審を囲み意義を唱えるのが当然のような光景だが、上川は何も言わずゴール脇に置いた水を口に含むと、泰然自若と準備に入った。そして相手シュートに対し、右へと跳んでセーブしてみせた。その時の情景が言葉と重なり合った。
■「お酒も一緒に飲みます」
早大時代は4年間寮生活で、卒業後は福島暮らし。今回のレンタル移籍で、神奈川県内にある実家へと戻った。毅然(きぜん)とした世界的なレフェリーのイメージばかり付きまとうが、普段は「普通のおっちゃん」だという。そんな父とは何でも話せる父子関係にある。
「お酒も一緒に飲みますし、楽しい感じで。大学生くらいから色々と話すようになって、たわいもない会話ができるのがうれしい。“ちゃんと生活できているか?”みたいな。やっぱり親ですね。僕が高校くらいまでは忙しくて、あまり話す機会もなかったですから」
■父子2代でベルマーレ所属
父もレフェリーとなる前はフジタ工業(湘南ベルマーレの前身)に所属したサッカー選手。自身も中学時代から湘南の下部組織で育った。
「お父さんがサッカーをやっていたから自分もサッカーを始めた。その影響もあるので、一番(の親孝行)はプロで出ている姿を見せたい」
その思いがあるからこそ、自らに課された「JFL昇格」という目標へ全力を尽くす覚悟だ。
「(2つカテゴリーを下げる地域リーグ行きには)少し迷いはありましたけど、この選択が自分にとって正解だったと言えるように進みたい。個人的にはもっと上でやりたいので、ここで結果を出したい」
常に屈託のない笑顔を絶やさず、こちらの質問に応じた川上。偉大な父の姿を見て育った若者は、ピッチの外でもフェアプレーの精神にあふれていた。【佐藤隆志】(ニッカンスポーツ・コム/サッカーコラム「サカバカ日誌」)