治療とリハビリを終え、バルセロナ市内の施設から出てくる日本代表のMF本田圭佑(2012年2月1日撮影)
治療とリハビリを終え、バルセロナ市内の施設から出てくる日本代表のMF本田圭佑(2012年2月1日撮影)

新聞社のデスク稼業は出勤時間が遅い。会社へ向かう昼すぎ。電車に揺られながら、腕時計で日付を確認した。

1月31日。

ふと、当時を思い出す。早いもので、あれから10年もの月日が流れた。

サッカー担当にとって8月31日と1月31日は、気が抜けない日になる。欧州の移籍市場が閉まる最終日。11年1月31日にはDF長友佑都(現東京)が、セリエAのチェゼーナからインテルミラノに電撃移籍した。EU圏外選手の登録枠が絡み、MF清武弘嗣がスペインの強豪セビージャからC大阪に復帰が決まったのも17年1月31日のことだった。

忘れもしない10年前の1月31日。朝早くから、ローマのレオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港の到着ロビーで過ごしていた。

当時まだ25歳でCSKAモスクワに所属する日本代表のFW本田圭佑に、セリエAのラツィオが正式オファー。移籍金を巡るクラブ間交渉は最終局面を迎えていた。

移籍のウインドーが閉まるまでに決着しなければ破談になる。残された時間は24時間を切り、時間との闘いになっていた。

30日の時点で、本田はまだ手術を受けた右膝のリハビリのためバルセロナに滞在していた。空港にチャーター機を準備。合意すれば、すぐに本拠地であるローマに入る予定になっていた。その到着を、今か今かと待っていたのである。

到着ロビー片隅のピッツェリアには、テレビがあった。スポーツ専門局が移籍市場最終日の駆け込み移籍を報じ、そのトップニュースとして本田のラツィオ入りが秒読みに入っていることを伝えていた。クラブハウスには現地の番記者が集結しており、それより前にイタリア入りした直後の本田の肉声を取ろうとしていたのだが、正午が過ぎ、夕方になろうとしていた頃、雲行きが怪しくなった。

本田との契約を2年残すCSKAモスクワ側は1600万ユーロ(当時のレートで約16億円)を要求。ラツィオ側はフランス代表FWシセを売却するなどして資金を捻出し、最終的に1400万ユーロ(同約14億円)を2回の分割で支払うことを提示した。だが、CSKA側が一括払いでの受け取りにこだわり、移籍市場が閉まる直前になって交渉を打ち切った。結局、本田がローマ入りすることはなかった。

運良く、深夜のローマ発バルセロナ行き最終便のチケットを購入。空港から1度も外に出ることなく、到着口のピッツェリアで朝昼晩とピザ3枚を食べてバルセロナへととんぼ返りした。

バルセロナ市内の施設でリハビリを終えて、タクシーに乗り込む日本代表のMF本田圭佑(2012年2月1日撮影)
バルセロナ市内の施設でリハビリを終えて、タクシーに乗り込む日本代表のMF本田圭佑(2012年2月1日撮影)

翌2月1日の朝、リハビリのためバルセロナの病院に姿を見せた本田を取材した。寒く、冷たい雨が降る日。朝から約3時間、施設内でみっちりトレーニングをこなし、汗だくになっていた。地下にある部屋から出てきた彼は、なぜかニヤリと笑ったのをよく覚えている。

「もう俺自身の気持ちは切り替わっているんでね。ウインドーが閉まった昨日の夜に、ラツィオの話がなくなった時点で、これからやるべきことは明確になった。今はCSKAの選手として、自分を向上させることしか頭にない。今回、破談になったことなんて、俺にとっては屁(へ)でもない。逆に言えば、これで可能性は広がった」

移籍が実現するのは、それから2年後のことである。結局、契約満了になるまでCSKAモスクワに在籍し、14年W杯ブラジル大会の半年前にACミランへと移る。移籍市場の残り時間に翻弄(ほんろう)され、その後2年もの歳月を費やしながらも、ビッグクラブ移籍という有言実行は貫く。

移籍が破談になったあの日から丸10年。35歳になった本田は昨年までリトアニアのスドゥバに在籍し、今は無所属の状況が続く。向かう先はどこだろうか-。

「世界一を目指す」と言って本気になり、ギラギラとしていた当時を知る者としては、まだ現役でいる以上、再びピッチ上で輝く姿を見たい。もうひと花咲かせて欲しい。

心からそう、願うのである。【元サッカー担当=益子浩一】(ニッカンスポーツ・コム/サッカーコラム「サッカー現場発」)

2012年2月2日 本田圭佑の移籍破断を報じる日刊スポーツ紙面
2012年2月2日 本田圭佑の移籍破断を報じる日刊スポーツ紙面