歴代最多のJ1通算191得点。C大阪FW大久保嘉人(39)が、今季限りで引退する。11月22日の引退会見で、サッカー人生一番の思い出を聞かれて、こう言った。

「入団した時の磐田戦(01年4月14日)での初ゴール。4年後にマジョルカに行き、デビュー戦(05年1月9日)のアシストとゴールは忘れられない」。

その言葉を聞いて、マジョルカで取材していた16年前を鮮やかに思い出した。

★開始5分でアクシデント

22歳のFWが、世界最高峰のスペイン1部に移籍する。冬の移籍市場で半年のレンタルだった。当時の大久保はJ1通算66試合33得点。一流ストライカーの目安とされる2試合に1得点のペースでゴールを量産していた。現在と違って日本人の欧州移籍は珍しく、スペイン挑戦も城彰二、西沢明訓に続く3人目だった。

日本の期待は高かったが、現地の見方は懐疑的だった。晴れの入団会見で、いきなり現地記者が「テレビ局があなたの移籍金と年俸を肩代わりして加入した、という話は事実か?」と質問した。会見場の隅でクラブ関係者は「実は、私は大久保のことは何も知らない」とこぼした。厳格で有名なクペル監督は、クラブ主導の大久保獲得に前向きではなかった。マジョルカの担当記者は、大久保に「城と西沢は成功できなかったが、成功できる自信はあるのか?」と何度も聞いた。

記者は、大久保とほぼ面識はなかった。移籍前、C大阪での最後の練習で名刺を渡して「スペインにもいきます」と伝えて「えっ」と驚かれた。当時のC大阪担当が海外出張ができなくなって、神戸担当だった記者にお鉢が回ってきた。サッカー担当になって、2カ月だった。

04年12月17日、マジョルカに入った。大久保のデビュー戦は早ければ、05年1月9日のディポルティボ戦。3週間しかなかった。少しでも顔を覚えてもらおうと毎日、練習場の入りを待った。大久保はいつも一番乗りだった。「おはよう」だけの日も多かったが、1人でぽつんと立っている記者の前を、素通りするようなことはしなかった。

物おじしないプレーは練習から全開だった。チームの戦術は堅守速攻。カウンター攻撃で大久保のドリブルは有効だった。練習から味方DFとヒジなどで激しくやりあった。現地で合流して、同僚となったアルゼンチン人カメラマンは「オオクボ、ナイスガイ、カインドリー。バット、イン、ザ、ピッチ、ソー、ダーティー。ホワイ?」と首をかしげた。クペル監督は「大久保はふてぶてしさ、強気な性格を見せる瞬間がある」と、闘争心を評価。ディポルティボ戦での先発デビューが決まった。

大久保は、地元の市長に「デビュー戦での初ゴール」を約束していた。相手の守備を束ねるポルトガル代表DFアンドラーデについて「よく知らない。外国人は体はデカいが、横の動きに弱い選手が多い」とにやり。現地メディアから「本当に活躍できるのか?」と、恒例の質問を受けて「自信はある」と断言した。

記者もデビューゴールを期待する記事を日本に送っていた。日本人の「FW」が、欧州でデビュー弾を決めれば、83年8月の尾崎加寿夫(ビーレフェルト)以来2人目の快挙になる。大久保が衝撃のデビュー弾で、奥寺康彦、中田英寿らMFがメインとされてきた日本人の評価を変える-。そうは書いたが、確信があったわけではない。

05年1月9日、マジョルカの本拠地ソンモイス。大久保は、エースFWルイス・ガルシアとともに2トップで先発した。得意の1・5列目。強豪ディポルティボは堅い守備が持ち味だった。

開始5分、いきなりアクシデントが起きた。大久保が、相手DFセサルと交錯してピッチに倒れ込んだ。相手のスパイク裏で蹴られて、右膝下に穴が開いた。

「相手のとがっているポイントが足に刺さって、膝がすごく熱くなった。傷を見たら白い骨が見えた。もうサッカーできないのかなと思った」

ピッチの外で3分間、治療を受けた。医療用ホチキスで傷口をばちん、ばちんと仮止めして白いテーピングを巻いた。

「初めてホチキスを見た瞬間、こんなのでやるのかよ、おいおいやめてくれよって。でも、とにかく点をとらなきゃいけない。最初にガツンとやられてそこから開き直った」。

手負いで奮闘する姿に、ボールが集まり始めた。後半に入って体が温まり、曲がらない膝も動き始めた。

0-1の後半12分、右サイドからのクロスで、FWルイス・ガルシアの同点ヘッドをアシスト。1-2と再び突き放された同19分、今度は右クロスに対し、左に流れながら、痛む右足で跳んだ。長身DF2人の間で頭を合わせて、同点ゴールを決めた。飛び出したGKの頭上を越えるループ気味の技ありヘッドだった。ゴールを見届けると、右拳で胸をたたいてほえた。

★衝撃デビュー即病院

「入った瞬間、夢を見てると思った。ずっと夢見ていた。夢の中では足のゴールだった。あの時、ヘディングしたボールがスローモーションで動いていった。入れ! 入れ! 入れって。観客の声も聞こえなかった。大事なゴールの時は、なぜかスローになる」

大久保の1ゴール1アシストで、強豪相手に勝ち点1を手にした。クペル監督は「グランゴール(偉大なゴールだった)」とほめた。そして相手の知将イルレタ監督と2人で「足の負傷がなければ、もっとできたはず」と口をそろえた。

大久保は、12月の入団会見後に「日本人が欧州に移籍すると、いつも金のことを言われる。自分はそれをピッチ上で見返したい」と強い口調で言った。もう実力を疑うものはいなかった。

代償はあった。試合後は、医務室で傷口を2針縫って病院に直行。右膝は「強い打撲で全治10日、絶対安静3日」と診断され、そのまま入院した。次節の1月16日ベティス戦は欠場が決まった。チーム首脳は「大久保の実力はわかった。焦る必要はない」とした。

正直に告白すれば、記者はデビュー弾が現実になって面食らった。実は毎朝の練習場で大久保にお願いをしていた。「デビュー戦で活躍しても、しなくても、翌日にインタビューさせてほしい」。

しかし、試合は想定をはるかに超えるものだった。デビュー戦の1ゴール1アシストから、病院のベッドへ。翌日は退院直後の完全休養日だ。長年、取材していたわけでもない。というか、マジョルカで初めて会ったようなものだ。さすがに厳しいかと思ったが、大久保は約束を守った。

休養日で公のコメントがない中で、けがとゴールについて、詳細に語った。

そして最も知りたかった復帰戦について「(1月23日の)Rマドリードの試合には出たい。移籍前から夢だった。ジダン、ロベルト・カルロス、ロナウド、ベッカム。皆が有名で、皆が一流選手。やってみたい」と、強い意欲を明かした。

当時のRマドリードは、まさに「銀河系軍団」だった。会場は相手の本拠地サンティアゴ・ベルナベウ。サッカー選手ならば、誰もが身震いする状況だ。

大久保は10日間の治療をへて、18日に抜糸。19日に練習を再開した。大一番に向けて、クペル監督から「ジダン、ロナウドにびびるなよ」と、出場を前提としたゲキを飛ばされた。

しかし、練習に復帰した大久保に影が差す。右膝の違和感がとれなかった。

試合3日前の20日は2部練習。しかし大久保は、午後の練習に姿を見せなかった。不穏な空気が漂う中で、クラブは急きょ、会見を設定した。そして「強い打撲」とされていた診断の訂正を発表した。

大久保のけがは、右膝蓋(しつがい)骨骨折だった-。(つづく)【益田一弘】

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