陸上の実業団で監督を務めている元甲子園球児がいる。短距離選手が所属する福井県拠点のユティックの村田和哉監督(30)だ。
名門・福井商で2年と3年の夏に聖地を踏んだ。最後の夏は後に初優勝する佐賀北と開幕戦で対戦。0-2で敗れたが、左前打も放った。法大2年時から陸上を始め、今年1月には監督に就任。プロ野球のチームのように陸上の実業団では珍しくファンクラブを設立したり、またチームのユーチューブチャンネルを作ったりするなど、異色の経歴を持つ新米監督は奮闘している。
07年8月8日。2万8000人の観衆が見守る灼熱(しゃくねつ)の甲子園を、村田監督は駆け回っていた。最後の夏は開幕戦で、相手は佐賀北だった。2点を追う8回裏、無死走者なし。2ボール、2ストライクから外角低めに135キロの直球が来た。極限まで引きつけ、体を回転させる。打球は黒土を弾みながら、三遊間を抜けていった。
「足を生かすために、流して三遊間へボールを転がす練習をしてきました。ずっと繰り返してきた事を甲子園で表現できたので、うれしかったですね」
村田監督は甲子園初ヒットを放ち、2年生にヤクルト中村悠平捕手(30)がいたチームの反撃ムードを高めた。ただ、後に「がばい旋風」を巻き起こすチームは、そう簡単に流れを渡してくれない。前年のハンカチ王子率いる早実(西東京)に続き、優勝校に敗れた。白球を追い続ける生活は幕を閉じた。
福井・足羽(あすわ)中時代には軟式の全国大会で日本一も経験したが、野球は高校までと決めていた。大学は指定校推薦で法政へ。多士済々の球児が集う硬式野球部の練習に、一応は見学へ行くも、「目標にしていた甲子園に出場して燃え尽きてしまった」。入部はしなかった。普通に授業に出て、アルバイトをして、野球サークルに「かじる程度に参加」する日々。ごくごく一般的な大学生活を送っていた。
陸上との出会いは2年生の秋ごろ。何げなく書店に立ち寄り、話題の本のコーナーにあった1冊が目に入った。小説「一瞬の風になれ」(講談社文庫)。読んでみると、サッカー少年が陸上部に入って仲間と成長していく。その主人公と自分を重ね合わせ、長く眠っていた鼓動が駆り立てられた。見失っていた目標を見つけた。「チャレンジしたい気持ちになった」。新しい世界へ飛び込む決心をした。さすがに「素人」の身で、体育会の陸上部に入る勇気はなかったが、東京に当時あったクラブチーム「ニューモード」に入った。
もともと足は自信を持っていた。高2の秋の福井県大会3位決定戦では「1試合7盗塁」の県記録も作ったこともある。当時、雑誌や新聞社から聞かれる50メートル走のタイムには「5秒7」と申告していた。60メートルの日本記録が6秒54だから、陸上をやると分かる。「高校生でありえない。そんなに速くなかったですね」と笑う。
走る-。球児の時は単純に考えていた、その動作は奥深く、1つ1つ突き詰める作業が楽しかった。野球でいろんな動作をしてきたからか、体の使い方を指摘されれば、改善は人より早かった。いきなりトップレベルで戦えるほど簡単ではなかったが、たしかな生きがいになった。
法大卒業後は地元企業に就職した。退社後の夜8時ごろから練習という市民スプリンターに。その時、同じ練習場を拠点にしていたのがユティックだった。自然に選手や指導者と顔なじみとなり、親交を深めていった。その姿に、もっと自分も本格的に陸上に打ち込みたい気持ちが強くなった。仕事は楽しかった。ただ、やっぱり実業団はサポートの環境が整っている。もっと走りたいという思いが勝り、半年で転職を決断した。それから、徐々に力を付けていく。五輪や世界選手権は遠かったが、14年には福井県記録となる100メートル10秒29をマークした。
昨季は選手兼コーチとして経験を積み、今年1月から監督に就任した。チームには、村田監督以外に男子選手が3人しかいないため、「代打俺」ならぬ「○走俺」として、リレーだけは出場する見込みだが、基本的には指導に専念している。「自主性」を重んじるのが指導スタンス。この春には女子短距離で、立命大時代から名を知られた壱岐いちこ(23)も加入した。「東京オリンピックに選手を輩出したい。準備期間が長くなったのはチャンス」と意気込む。
チーム作りでは考えていることがある。「野球の経験が生きているのかは分からないですが」と、前置きした上で続ける。
「陸上って個人競技なので、個が大切なのですけど、私はチームというものもすごく大事にしています。よく知ってもらって、愛される存在になりたいという思いが強いんですよね」。
そのためにチームで公式ユーチューブチャンネルも開設。練習の様子や選手の声などを紹介している。飯塚翔太(29=ミズノ)、桐生祥秀(24=日本生命)ら個人でチャンネルを持つ選手は増えてきたが、チームとして持っているのは珍しい。撮影、字幕、BGMも含め編集は、男子短距離の平野直人(27)を中心にチームスタッフで行う。ほのぼの、ゆる~い雰囲気の動画もウケて、人気を集めている。
理想のチーム像を持っている。実業団でありながら、「BCリーグも含めプロ野球とかJリーグ」をイメージする。陸上の実業団の場合、企業は宣伝や社員の士気高揚につなげるべく運営している。多くのチームは活動費を企業に依存する形で、そこには問題も潜んでいる。陸上の場合、ほぼチケット収入などないに等しい。採算性が疑問視されることもある。業績の悪化によって、廃止となるチームも多い。
「僕らは民間の組織で、会社に支えてもらっているのですけど、それと同時に地元の人などたくさんのファンを作って、支えてもらえるチームになりたいと思ってます」。
プロスポーツの世界では当たり前でも、意外にも陸上界では地域密着は欠落しがちな視点で、とりあえず結果を残せばいいという考えが根強い。実際そうは思っていなくても、どう考えても費用対効果には合っていない実態は多い。もちろん五輪に出れば、効果は大きいが、それを実現できるは本当の一握りだ。
村田監督は昨年、陸上の実業団では珍しくファンクラブを設立した。特権は会員限定メールマガジンの配信や、新しく作った公式マスコットのグッズのプレゼントなど。まだまだ手探りの状態ではあるが、会社にだけに依存する形から少しでも脱却し、少しでも新たな価値を創出できるチームを目指している。「会社以外にも、いろんな人からの応援が、多ければ多いほどエネルギーももらえます。いろんな人と関わり、それが発展、普及にもつながっていく。新しい風を吹かせたいですね」と笑う。陸上教室などの活動にも力を注ぐ。「指導した子が将来、オリンピック選手になってもらいたいです。運動が好きな子を育てたり、地元に還元をしたいですね」。そう未来への思いもはせる。
コロナはスポーツ界を一変させた。球児の甲子園の夢も奪った。村田監督は「もし自分が高校3年生の時に中止になったら、すごくショックだったろう」と無念さをおもんぱかる。「僕は甲子園に出たので、難しい」とした上で、言葉を選びながら続けた。
「1度夢が無くなって、何をしていいか分からない時期もありました。その中で新たな夢を見つけられた。新しい事に興味を持ったり、チャレンジしたりすることで、可能性を広げられるかもしれない。夢を失っても、いつか何か必ず夢を見つけられる。そう感じてもらって、何か少しでも誰かの力になれたら、うれしいですね」。
その言葉は示唆に富む。今の経験は違う世界にだって、通ずる肥やしになる。輝ける舞台は、知らない場所にもあったりする。【上田悠太】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)
◆村田和哉(むらた・かずや)1989年(平元)8月30日、福井市生まれ。野球では代走や守備固めで下級生時からベンチ入り。小技も得意な左打者として活躍した。9番中堅で先発出場した佐賀北戦では第1、2打席こそ163センチ左腕の馬場将史に封じられたが、第3打席にエース久保貴大からヒットを放った。陸上の自己記録は100メートルが10秒29、200メートルが20秒87。176センチ、70キロ。
<他スポーツで活躍する主な元甲子園球児>
尾崎将司(通算113勝プロゴルファー) 海南(徳島)の超剛腕エースとして64年春に初出場初優勝。
小野忠史(ガンバ大阪社長) PL学園(大阪)では2年夏の78年に背番号15でベンチ入りし、全国初優勝。3年春は小早川毅彦らと4強入り。
植木大輔(元アメフト日本代表) 近江(滋賀)では控え投手として3年時に98年春、夏に甲子園出場。故障にも苦しみ、登板はなかった。
北村晃一(プロゴルファー) 01年春と02年夏に桐光学園(神奈川)でベンチ入り。高い守備力でチームを支えた。「行列のできる法律相談所」で知られる北村晴男弁護士の長男でもある。
遠藤圭吾(ボートレーサーの養成所に入学) 横浜(神奈川)の遊撃手として18年夏にベスト16。金足農(秋田)の吉田輝星からも適時打を放った。南神奈川大会では恐怖の9番打者として打率5割超。