<連載:沼津中央初の全国制覇へ>

 全国高校バスケットボール選抜優勝大会が23日、東京体育館で開幕する。男子で今夏の全国総体4強の沼津中央(静岡)は初の頂点を目指す優勝候補だ。セネガル人留学生シェリフ・ソウを中心にした現3年生の勧誘から始まった強化策だが、そこには学校側の思惑以上に定年を迎えた名将の情熱が注がれ、バスケットボール界のキーマンが関与していた。3年間で奇跡は起こるか-。ここまでの軌跡を今日から3回連載する。

 杉村敏英(62)は新たな挑戦の場を求めていた。飛龍で35年指導し全国大会に18回導いた。08年度で定年を迎えた名将は人生の上で区切りをつけたとはいえ、バスケットボールへの情熱を失っていなかった。向かった先は、同じ通り沿いの歩いて10分ほどの沼津中央だった。94年に男女共学となった同高バスケ部は女子が03、04年に県総体優勝の実績はあった。しかし、目的は違った。「男子バスケ部を自分にやらせてください」。

 指導力と経験だけを携えたわけではない。これまでの静岡のバスケット界にはない、セネガル人留学生の受け入れというアイデアだった。きっかけは「カズさんに教えてもらったんだよ」。カズさんとは当時bjリーグ浜松・東三河フェニックスのヘッドコーチ(HC)中村和雄(71=現bj秋田HC)。県内に「プロバスケ」の面白さを知らしめて03年ごろから親交のあったバスケ界の重鎮から、新たな出発のエール代わりにセネガルとのネットワークを紹介された。そして、先方から挙がってきた名はシェリフ・ソウといった。

 アフリカ大陸の西岸、大西洋に面した国セネガル。スペインでのプレーを夢見てバスケットをしていたシェリフに日本からの誘いが届く。「日本という名前を知っていたくらい」ではあったが、6歳上の兄ファティさんが同じ形で岡山学芸館高に留学していたことが大きかった。「プロになる」夢をかなえるために日本行きを決めた。

 202センチセンターの入学決定を受けて、杉村は全国各地の中学生を勧誘した。シェリフの存在は大きな後押しとなった。新潟・本丸中で08年の全国中学体育大会を制した反町駿太は「伝統ゼロの学校でチャレンジしたかった」と燃えた。「全国に行けると思った」と言う同3位福岡中の川口颯ら6人が無名校でのプレーを選んだ。こうして、杉村をコーチに全日本U-18委員などを務めた小田島誠を監督に迎えた体制で09年4月、新生沼津中央男子バスケ部は始動した。

 公式戦の初陣は5月9日の総体東部地区予選。同月の23日にやって来るシェリフはまだいない。1年生軍団は初戦こそ突破したが、続く2回戦で星陵に63-75で敗退した。「さすがに2学年上は強かった」と川口は振り返る。それでも12点差。「シェリフが来れば」の手応えを十分に感じられたスタートだった。

 大黒柱が加わり練習を積み9月を迎えた。東部新人選手権から快進撃が始まる。100点ゲームを重ね、10月の選抜県予選5回戦で興誠(現浜松学院)に敗れるまで6連勝を挙げた。年末からの新人戦東部地区予選では優勝。県大会初出場を華々しく飾り4強まで進出した。1年目から藤枝明誠と戦うところまできた。4連覇を目指す王者に9点差まで食い下がったが、いきなりの勝利はならず。シェリフも「明誠は強かった」と認める完敗だった。

 それでも、続く3位決定戦を制し東海大会出場権を獲得。ところが、東海大会でも準決勝で藤枝明誠に負け3位決定戦に回った。県内に存在を知らしめる1年となった一方で、新たな目標ができた。打倒藤枝明誠への挑戦が始まった。

 「男子の核になる部が欲しいとは思っていましたが、男子バスケ部は学校への贈り物だと思っています」。取材当初に出会った沼津中央理事長の秋鹿(あいか)敏雄(73)は、そう言ってほほ笑んだ。知名度アップのため、学校主導で運動部を強化することは常とう手段だ。しかし、沼津中央は学外からの熱意が、最高の形になろうとしている。贈り主がしみじみ言う。「35年かかってできなかったことが、3年でできるなんて…」。杉村は再び語り始めた。(敬称略=つづく)

 ◆沼津中央

 1924年(大13)沼津精華女学校として創立された私立校。26年に沼津精華高等女学校、48年に沼津精華高等学校と改称され、94年から現校名で共学となった。生徒数675人(うち女子450人)。沼津市杉崎町11の20。栗原進校長。