3兄弟の末っ子は、少年時代から優しい心の持ち主だった。ある正月のこと。親族からお年玉をもらうと、真っ先に母に声をかけた。「お母さんの洋服を買いに行こうよ」。ゲームやおもちゃが欲しい年ごろでも、親への感謝の気持ちが上回った。初場所で日本出身力士として10年ぶりの幕内優勝を果たした、琴奨菊の子供時代のエピソードだ。

 「母親思いの優しい子だったんです」。優勝を決めた千秋楽の夜、父の菊次一典さん(60)は、懐かしそうに振り返った。その横で、母美恵子さん(61)はあふれる涙をハンカチで拭っていた。両親もいろんな思いが脳裏をよぎった。大関昇進後は、ケガもあって思い通りの結果を残せず、かど番の苦しみも5回味わった。引退を覚悟した時期もあった。試練の度に、両親にも後援会などから厳しい声が届いたという。「今回の優勝で少しはみなさんに恩返しができたかなと思います。よく頑張ってくれた。感無量です」。父一典さんのホオにも、また涙が伝った。

 勝っても、なかなか口が滑らかにならない力士もいるが、琴奨菊はリップサービスの面でも大関級だ。朝稽古で相撲以外の話題を振っても、ほぼほぼ答えてくれる。「何か面白いエピソードないですか」という“直球質問”にも笑って応じてくれたこともあった。

 そんな優しさは、勝負の世界では仇になるとも言われるが、さまざまな試練を乗り越えてきた琴奨菊は、心のたくましさも兼ね備えてきた。春場所(3月13日初日、エディオンアリーナ大阪)では「もう1つ上の番付」を狙う。徐々に重圧も掛かってくるだろうが「横綱、2場所連続優勝」と、言葉を濁すことなく素直に目標を口にする。

 小学生時代から目をかけられていた先代師匠の元横綱琴桜(故人)には「素直な心を持ち続ければ、必ず強くなる。忘れずにやりなさい」と言われていた。先代と同じ32歳での横綱昇進へ。優しく、素直で、たくましさも加わった琴奨菊が、チャレンジする。【木村有三】