71歳の五輪戦士が誕生する。馬術の法華津(ほけつ)寛(70=アバロン・ヒルサイドファーム)が、ロンドン五輪に出場することが確実となった。国際連盟が2日に発表したランキングで、五輪の馬場馬術個人の出場枠を獲得。日本連盟は枠を獲得した人馬を五輪代表にするとしており、近く発表される。今月28日に71歳となる法華津は08年北京五輪に日本選手史上最年長67歳で出場しており、自らの持つ記録を更新。人間なら約60歳に相当する愛馬ウィスパー(14歳、牝馬)とともにロンドンに挑む。

 4年の時を経て「じじの星」が、再び輝いた。法華津は国際連盟のランキングにより、自らの手で出場枠を獲得。日本連盟の派遣基準をクリアし、08年北京五輪に続く2大会連続出場を手中に収めた。「ロンドン五輪出場は1つの目標でしたから、最後に一応、資格を獲得できたので喜んでいます」。素直に胸の内を明かした。

 最後の最後で、やってのけた。1日にフランス・ビドーバンで行われた国際大会で見事に優勝した。五輪の個人出場枠を決めるランキングは、この大会までが選考対象。この優勝で一気にランクアップし、東南アジア・オセアニア地区でトップに浮上。出場枠を獲得するに至った。日本連盟は、早ければ週明けにも代表決定を発表する予定だ。

 中学1年から乗馬を始めて、もう58年になる。64年東京五輪に出場後、84年ロサンゼルス五輪の補欠、88年ソウル五輪の出場断念と苦い経験を経て、08年の北京で44年ぶりに五輪に出場した。その時、日本選手史上最年長の67歳。これだけがクローズアップされて「『67歳』が表に出ることは不本意でした」と、年齢だけが先走ることに、違和感を覚えたこともあった。

 だが、今回は違う。「年を取っているからこうして取材してもらえるので、ありがたいです。そうでなかったら見向きもされませんよ(笑い)。でも、67歳から4年がたったけど体調は変わらない。年齢を、私はそんなに気にしていませんよ」と若々しく話した。

 2大会連続3度目の五輪は、北京から変わらぬ愛馬ウィスパーと臨む。06年12月に出会った相棒は、人間で例えると約60歳にあたる14歳になった。10年秋に米国で行われた世界選手権後には1度、調子を崩した。それだけに今回、一緒に五輪出場を確実にしたことが「感慨深い結果となりました」とうれしがった。

 医薬品会社の社長業を引退し、ドイツに拠点を移してから9年になる。高温多湿な香港で行われた北京五輪では、ウィスパーと馬場との相性が悪く、力を出し切れなかった。次は“慣れ親しんだ”欧州での五輪。3度目の夢舞台に、70歳の古希を超えた戦士が挑む。

 ◆夏季五輪の高齢選手

 法華津寛が08年北京五輪に出場した67歳4カ月が日本選手の過去最高齢。女子は88年ソウル五輪馬術に63歳9カ月で出場した井上喜久子。日本人メダリストでは84年ロサンゼルス五輪で射撃金メダルに輝いた蒲池猛夫の48歳4カ月が最年長。世界の最高齢出場は1920年アントワープ五輪射撃のオスカー・スバーン(スウェーデン)の72歳10カ月で、銀メダルも獲得している。最年長金メダリストもスバーンで、1912年ストックホルム五輪の64歳258日。

 ◆馬場馬術

 フランス語で「調教」を意味するドレッサージュ(Dressage)が原語で、人馬一体が求められる。20×60メートルの長方形の馬場で「常歩(なみあし)」「速歩(はやあし)」「駈歩(かけあし)」の3種類の歩き方を基本に、左右の脚を交差させるハーフパス、1歩ごとに脚を高く上げて前進するパッサージュなど、馬を正確に運動させられるかを競う。演技内容が決まった規定と、音楽をかけて行う自由演技で行われる。複数の審判員が出す10~0点の得点と印象点を合計し、パーセンテージで表す。60%を超えれば高評価だが、世界大会の優勝は90%以上にもなる。

 ◆法華津寛(ほけつ・ひろし)

 1941年(昭16)3月28日、東京都出身。中学1年から乗馬を始める。64年東京五輪は障害飛越で40位。84年ロサンゼルス五輪は補欠で、88年ソウル五輪は馬が検疫に引っ掛かり、出場できなかった。44年ぶりの出場となった08年北京五輪は馬場馬術で34位。88~92年の全日本馬場馬術選手権を同一人馬で5連覇。慶大卒業後、日本石油などを経て、03年に医薬品会社の社長業を引退。ドイツに拠点を移して活動。家族は妻と長女。168センチ。