本欄では平成の故人を不定期で回顧する。日本野球界で、初めて「文化功労者」に選出されたのは92年(平4)、元巨人監督の川上哲治氏(13年没)だった。スポーツ界からは、陸上の織田幹雄氏、水泳の兵藤秀子氏(旧姓前畑)に次ぐ、3人目の栄誉になった。

現役時代には、史上初の通算2000安打を記録した。首位打者5回、本塁打王2回、打点王3回、MVPを3度獲得する。監督としては65年(昭40)から9年連続日本一を成し遂げるなど、計11度の優勝を誇っている。

巨人V9、日本シリーズ無敗は、まさに史上最強監督といえるだろう。顕彰が発表された翌10月21日付の日刊スポーツに、72歳だった川上氏は「野球が文化として、社会的に認められたことが何よりうれしい」とコメントしている。

長男・貴光(よしてる)氏は「プロ入り当時の職業野球は不安定で、父親(伊兵次氏)から、まともな仕事に就くように反対された。それが国民的娯楽として認知されたと、非常に喜んでいたのを覚えています」と振り返った。

川上氏の実績は、名選手、名監督としてのものだけではなかった。74年に巨人監督を退任すると、今度は青少年の育成に尽力し続ける。川上氏は、日本に初めて「少年野球教室」を取り入れた第一人者だった。

貴光氏は「父はテレビで見る時代劇の水戸黄門が大好きでした。監督業を終えたら、バットを1本引っさげ、全国を旅しながら、今でいう少年少女に、野球を教えるのが長年の夢だった。水戸黄門をやりたかったんですよ」と笑った。

長嶋茂雄氏に監督を譲った75年の川上氏は、球団専務の肩書で、読売主催の少年野球教室を開催する。監督時代のマネジャーだった山崎弘美氏を伴っての全国行脚だった。

貴光氏は「まず最初に教えるのがキャッチボール。チームプレーの精神の基本はそこにあると説くわけです。指導者にも、目標は勝つことだが、目的は人を育てることと教えた」と説明する。

その後、解説者になったNHK、川上企画が、それぞれ中心となって野球教室に取り組んだ。少年少女に指導する前後には、指導者にも門戸を開いた。

当時の“川上メモ”には、日本中を飛び回った足跡が残っており、ある年はブラジルにまで足を運ぶなど、スケジュールがびっしり埋まっている。

第1回から5年間で「少年野球教室」を開いた数は、計316回、小中学生2万4820人、指導者4697人が集まった。観客数32万3830人。参加費無料。その後も、長年続いた野球教室は盛況だった。

貴光氏は「原っぱで野球をやっている少年を見つけて、さっと駆け寄って教えると、いつの間にか上手になった。少年が気付いたときには、自分はもうそこにいない…みたいなのが、父の理想だったようです」という。まさに、昭和から平成にかけての水戸黄門だった。【寺尾博和】

◆川上哲治(かわかみ・てつはる)1920年(大9)3月23日、熊本県生まれ。熊本工から38年に巨人入団。投手から一塁手に転向し、39年に19歳で首位打者を獲得。戦後は46年に巨人復帰。「打撃の神様」と呼ばれ、47年からは大下弘(東急)の青バットに対抗して赤バットを使い、人気を二分した。61年に巨人監督に就任し、74年に辞任。65年野球殿堂入り。背番号16は永久欠番。92年に勲4等旭日小綬章を受章。現役時代は174センチ、75キロ、左投げ左打ち。

川上氏の監督成績
川上氏の監督成績