96年の春、いやそれ以前の段階で、当時横浜監督の渡辺元智(73)は2年後の夏を見据えていた。98年秋には、地元神奈川での国体開催が控えていた。その出場権を確保するうえで、渡辺は「夏8強」を自らノルマに課した。73年選抜、80年夏と頂点に立ったものの、「春夏連覇」には届いていない。地元国体の98年は、勝つために最大限の力を尽くす決意を固めた。渡辺が当時を述懐する。

「正直、子供たちを集めました」

入学してきたのは、のちにプロ入りする小山良男(中日スカウト)小池正晃(DeNA2軍外野守備走塁コーチ)後藤武敏(DeNA)らシニア日本代表がズラリ。一時は帝京入りに傾いていた松坂大輔も小山が誘い、チームの輪郭が整った。

では、原石をどう磨くか。渡辺は「二人三脚」で指導してきた小倉清一郎(当時部長)と話し合い、分担を決めた。渡辺が精神力、小倉が戦略と、明確な指導体制を固めた。

「それまでスパルタや言葉の野球とか、失敗の変遷を繰り返してきた。だから、98年まで計画して、体力づくりを基本に、メンタル部分を足す。私が2時間の精神訓、小倉が1時間ほど戦略的なミーティングをやってました。長いミーティングで洗脳するんです」

熱血指導を受けた原石たちは、順調に力をつけ、松坂が2年生で迎えた97年夏の時点で、優勝候補の筆頭に挙げられていた。だが、県大会準決勝・横浜商戦は、松坂の暴投で9回裏サヨナラ負け。先輩の夢をかなえられなかった松坂は試合後、号泣した。

この敗戦を、渡辺は本当の意味での「出発点」として捉えていた。敗退後、すぐに新チームの練習計画を立案した。甲子園開催中には、早くも群馬・みなかみ町の温泉宿「常生館」で、約10日間の合宿をスタートさせる。練習と試合を織り交ぜ、早朝から日暮れまで野球漬けの日々を課した。

「昔のような鉄拳制裁はなくても、かなり厳しくやりました。当時の日射病、今でいう、熱中症のような子も出ました。もう無理だ、ひっくり返ったぞ、という感じでした」

合宿時に限らず、大黒柱の松坂には、投手として必要なすべてを、ほぼマンツーマンでたたき込んだ。ノーコン改良のため、ブルペンではフォーム矯正用のネットを立ててボール当てを反復させた。守備練習では、ネット越しに約5メートルの至近距離から全力でノック。剣道の篭手(こて)を着用し「顔を逃がすな、目をつぶるな」と容赦なく、ノックの雨を降らせた。横高名物のアメリカンノックも、ほぼ日課だった。

「地獄のキャンプ」を経た選手たちは、心身ともにたくましさを増した。翌夏、準々決勝のPL学園戦で延長17回に決勝2ランを放った常盤良太(東京海上日動あんしん生命保険)は、当時の松坂の変化を鮮明に記憶している。

「当時、アイツのことを、そこまですごいと思っていたメンバーはいないと思います。ただ、2年の夏が終わって、マツが完全に覚醒したな、という感覚は覚えています」

怪物になり始めた松坂を中心に、横浜は快進撃を開始する。秋の県大会、関東大会、明治神宮大会を次々に制覇。同年冬には、メンタルトレーニングだけの合宿で精神を鍛錬した。

「正座、正座のキャンプで、座禅と雪中のスキー。スキーは足腰を鍛えるにはいい。アメとムチの合宿です。正座をしながら、目標がその日その日を支配する、そういう座右の銘を徹底的に聞かせたり、あらゆることをやりました。彼らはつらかったと思います」

ひと冬を越えた選手たちは、体力が強化され、精神的にもひと回り成長した。迎えた選抜は、他校を寄せ付けない戦いぶりで優勝。渡辺率いる「松坂世代」は、確かな足取りで春夏連覇への道を歩んでいた。

(敬称略=つづく)【四竈衛】

98年3月、甲子園の室内で練習する横浜・松坂(右)と渡辺監督
98年3月、甲子園の室内で練習する横浜・松坂(右)と渡辺監督
横浜OB常盤良太氏
横浜OB常盤良太氏