札幌大谷の船尾隆広監督(47)が、高校野球指導者に転じてから初の全国切符をつかんだ。社会人野球時代は都市対抗野球本大会に10年連続出場し、97年インターコンチネンタル杯では日本代表として福留孝介、阿部慎之助らと世界一に輝いた。14年12月に同校監督に就任後は、部員に自身の経験をあますところなく伝え、日本一を目指す野球を掲げてきた。一野球人として用具管理や心構えも徹底してきた成果が、ついに実った。

円山の宙に舞った船尾監督は、ほっとした表情で口を開いた。「ベンチだけでなくスタンドも1つになって戦った結果です」。3回までに4点リードされた駒大苫小牧との準決勝と同様の展開から追い付き、8回は四球、犠打を挟み3安打で5点をたたき出した。「何とか1点ずつと思っていたが、よくつないでくれた」と、選手の成長に目を細めた。

一流の野球人に育てるため、心構えから徹底して植え付けてきた。「スパイクは毎日ひもを抜いて、ひもまで磨け」。用具を大事にできない選手は大成しない。飯田主将は「言葉すべてに重みがある。僕らのあこがれの存在で、何とか監督を甲子園に連れて行きたかった」と話した。

社会人野球の一線でプレーしてきた経験を、妥協することなく伝え続けた。過去、甲子園に最も近づいたのが17年夏の南大会4強。就任から4年、結果が出なくても、ブレることはなかった。「難しいこともすべて伝えてきた。高校生がすぐに表現するのは難しいが、それを一生懸命練習してできるようになってくれたら、とてもうれしい」。ときには言い方や表現を変えて、10代の選手に伝わるよう、試行錯誤してきた。

1年春から背番号1を与え期待したエース兼主砲の菊地吏玖(3年)を擁し優勝候補とされた今夏は、南大会初戦で札幌光星に降雨ノーゲームの末、再試合で敗れた。聖地どころか、円山で1勝も出来ずに終わった。ショックで何も手に付かなかったが「グラウンドに来て選手が無心でボールを追う姿に元気づけられました」と振り返る。

新日鉄室蘭、NTT北海道と所属チームが休部となり、野球から離れた時期もあった。円山での歓喜に「NTT休部が決まった直後の(06年)日本選手権予選に勝った時を思い出します。1日でも長く野球をやりたかった」。紆余(うよ)曲折あり今、野球に関われていることに、心から感謝している。【永野高輔】

◆船尾隆広(ふなお・たかひろ)1971年(昭46)5月31日、松前町生まれ。函館大有斗では87年夏、88年春に2季連続甲子園出場。90年に旧新日鉄室蘭入りし、外野手としてプレー。野球部休部に伴い95年にNTT北海道転籍。補強選手も含め、94~03年に10年連続都市対抗野球本大会出場。97年インターコンチネンタル杯日本代表。12年4月に札幌大谷学園職員となり、14年12月に札幌大谷高監督就任。家族は夫人と1男1女。173センチ、68キロ。右投げ左打ち。