阪神7年ぶりの高卒ドラフト1位選手となった創志学園・西純矢投手(18)。日刊スポーツでは西投手がプロ野球選手になるまでの軌跡を、座右の銘から「一以貫之(いちいかんし)~西の軌跡~」と題し、4回連載でお届けします。【取材・構成=磯綾乃】

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阪神ドラフト1位の創志学園・西純矢投手(18)を野球へ導いたのは、父雅和さんだった。広島市で育った西は、ベビーカーに乗っていた頃から、広島市民球場へ連れられていた。小学2年になる直前、父雅和さんはあるファクスを送る。

「この春から鈴が峰レッズに入団したいと思いますが、どのようにしたらよいでしょうか? 連絡をお願いします。 西 純矢」

「こんなファクス送ってくる人なんていないから、びっくりしましたよ」。鈴が峰レッズの阿南崇監督は振り返る。

雅和さんは、週3日の練習に欠かさず足を運んだ。毎年11月23日に開催する「鈴が峰レッズ杯」。いつもはモノクロのパンフレットだが、ある年は雅和さんが広告集めに奔走。数十件の協賛をほぼ1人で集め、カラーのパンフレットを作った。阿南監督は「おやじが必死やったのう」と懐かしむ。わが子のサポートを惜しまなかった。

西は天真らんまんな野球少年だった。投げてはガッツポーズ、打ってはガッツポーズ。阿南監督にはある思い出が強く残る。小学5年時の全国大会決勝。同点で迎えた7回裏1死満塁の好機。一塁走者は西だった。「スクイズしようか…」。阿南監督が考えていると「アウトー!」と審判の声が聞こえる。見ると西がけん制死していた。「一塁ランナーは関係なかろう!って(笑い)」。気持ちが前面にあふれ出る子どもだった。

才能はずばぬけていた。同い年とは頭1つ違う身長。肩の強さとガッツを買われて5年の時には正捕手として先輩をリード。6年になると投手として117キロをたたき出した。打てば75メートル先のフェンスを打球が越えていった。小学時代は生まれ持った能力だけで勝ち続けた。しかし、中学になって硬式のヤングひろしまに入団後、味わった悔しさが西を変えた。

チームで行っていた約5キロのランメニュー。30~40人いる選手の中で、西は常に最下位を争った。「長距離が苦手でした。家でもランニングをするようになりました」。自宅から道路沿いを走り、カープの寮を越えた先の公園を目指す約1時間のコース。公園で弟とキャッチボールを終えると、再び家まで約1時間走った。下半身は自然と安定し、中学3年の9月には最速141キロを出すまでに成長していた。

中学3年時には「NOMOジャパン」に選出され、米国遠征を経験。初日の試合で決め球がないことを指摘され、野茂英雄氏からフォークを教わった。加えてチームで1人だけ、常にボールを持って変化球の握りを練習するよう指示された。移動時はもちろん、ショッピング中もロサンゼルスのハリウッド観光でも、手にはボールがあった。

「自分ではあまり曲がっているとか、よく分からなかったんですけど」。滞在中、練習で投げた変化球を捕手が捕れずに後ろへそらしたことがあった。後から見た映像の中の野茂氏はうなずいていた。約1週間の短期間で習得する器用さもあった。

撮っていたのは、遠征に同行していた父雅和さん。テレビ局に提供した映像がニュースで流れたと、うれしそうに話していたという。いつでも、どこでも一緒だった。そんな親子に、早すぎる別れが待っていた。(つづく)

◆西純矢(にし・じゅんや)2001年(平13)9月13日生まれ、広島県出身。小学2年から鈴が峰レッズで軟式野球を始め、阿品台中ではヤングひろしまに所属。中学3年夏に全国優勝。同3年時にNOMOジャパンに選出された。創志学園では1年春からベンチ入りし、2年春から背番号1を背負う。2年夏に甲子園出場を果たし、1回戦で16奪三振完封を果たすなど活躍。最速は154キロ。遠投120メートル。50メートル走5秒9。184センチ、88キロ。右投げ右打ち。

◆一以貫之とは…「一を以(もっ)て之(これ)を貫く」とも読む。論語の里仁(りじん)編にある言葉。ひとつの思いを変わらずに貫き通すこと。