元プロ野球・巨人の球団代表で野球史家の山室寛之さんが、南海ホークス、阪急ブレーブスの球団売却を巡る内幕を描いた「1988年のパ・リーグ」(新潮社)を出版した。両球団の売却が同年だったのは偶然か。経済界、地元行政、メディアはどう動いたのか。同年10月19日の「ロッテ-近鉄」の裏側で起きた「1988年」の真実が、元社会部記者による丹念で綿密な取材で明らかにされる。

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-88年のパ・リーグと言えば、10月19日の近鉄が優勝をかけたロッテ戦です

山室さん 実はこの試合に、私はほとんど関心がなかった。巨人ファンの私は、巨人が優勝を逃し、王貞治監督の退任も決まっていたので、プロ野球への興味を失っていました。しょせんパ・リーグの話だろ、という気持ちもありました。私は読売新聞社会部デスクとしてリクルート事件を担当していて、多忙かつ緊張の日々を送っていました。おまけに当日早朝から東京地検特捜部が、リクルート本社の捜索など初の強制捜査に踏み切り、未明まで続いた。覚えているのは夜10時ごろ、取材班の部屋を出て編集局のフロアへ向かうと、各部のデスクたちが立ち上がってテレビを見ている。すわ、リクルート事件で新事実か、はたまた当時、ご闘病中だった昭和天皇に異変か、などが頭をよぎった。しかし、デスク陣が見ていたのはロッテ-近鉄戦でした。10・19の記憶と言っても、その程度でした。

-でも本では触れないわけにはいかない

山室さん まぁ、そうですね。10・19は、名著が数多く出版されてもいますし、同工異曲では意味がない。そこで自らにハードルを課した。まずは、番組を飛ばしてまで生中継したテレビ朝日の決断の理由をぜひとも知りたい。もう1つは、選手や審判が何を考えながら戦ったのか、その心情に迫れば名著とは別の味が出せると思いました。

-数々の著書にない新事実を発掘しよう、と

山室さん ドラマやニュースだけでなく、CMまで飛ばして全国へ生中継したテレビ朝日の早河洋・現会長兼CEOに取材し、氏いわく「怒濤(どとう)の放送」の細部について話を聞くことができた。テレビ朝日が、この試合をどのような決断によって中継したのかが分かりました。

-もちろん、グラウンド上の動きについても

山室さん 30人もの関係者に話を聞きました。ダブルヘッダー第2試合、同点で迎えた9回裏。ロッテサヨナラのチャンスに二塁走者がけん制アウトになり、ロッテ監督の有藤道世さんが10分近い猛抗議をした。時間切れを狙い引き延ばしにかかったと批判された有藤さんに、本心を聞きました。1回裏、死球を受けて痛がるロッテ選手に、近鉄監督の仰木彬さんが「早く代れば」と浴びせた言葉が伏線だった。有藤さんは、その言葉に熱くなったが、以後の試合に没頭して忘れていた。ところが、9回の抗議中に仰木さんから、ある一言があって、1回の仰木さんの言葉がよみがえり、再び熱くなった、と言うのです。そのことが球審、塁審、走者の証言を含め詳しく把握できた。

-この日は、阪急の身売りが発表された日でもあります

山室さん 午後5時から、大阪・梅田の新阪急ホテルで記者会見が開かれます。まさに川崎球場でロッテと近鉄が死闘を繰り広げているさなかのことです。さらにロッテは翌20日には南海の、23日には阪急の、それぞれ最後の公式戦の相手となったのです。

-ダイエーの球界進出でも名前が挙がったロッテが、ここでも。因果な話ですね

山室さん 88年は、その後のプロ野球を考える上で、大きな転換点になった年です。80年代、首都圏と近畿圏に6球団が集中していたパ・リーグは今、札幌市や仙台市、千葉市と新たな都市に本拠を構え、全国に展開しています。南海-ダイエーの福岡移転は、その契機となったのです。

-ところで、巨人について書く予定はありますか

山室さん う~ん、まぁ、そうですね。まだ今はね。…。体力、気力と相談しながら、初のON決戦となった00年の日本シリーズや近鉄の消滅なども野球史として書きたいと思っています。

◆山室寛之(やまむろ・ひろゆき)1941年(昭16)中国・北京生まれ。64年、読売新聞入社。警視庁キャップ、社会部長、西部本社編集局長などを歴任。98年から2001年まで巨人球団代表を務める。現在は野球史家として活動。著書に「巨人V9とその時代」「背番号なし 戦闘帽の野球」など。