日刊スポーツは2021年も大型連載「監督」をお届けします。日本プロ野球界をけん引した名将たちは何を求め、何を考え、どう生きたのか。ソフトバンクの前身、南海ホークスで通算1773勝を挙げて黄金期を築いたプロ野球史上最多勝監督の鶴岡一人氏(享年83)。「グラウンドにゼニが落ちている」と名言を残した“親分”の指導者像に迫ります。

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1991年(平3)11月、鶴岡は「勲四等旭日小綬章」を叙勲された。プロ野球人として初の受賞。「スポーツ功労者文部大臣表彰」「従五位」も受けた。

御堂筋パレードが実現した59年、清明丘小1年だった三女の香(67)は「車酔いで気分が悪く大阪球場の医務室で休憩してました」と苦笑する。小さい頃に家族旅行に出掛けた記憶は、ほとんどない。

「父親はいやなことは耳に入れたくないようで、家で野球の話はしませんでしたね。広島弁で文句をいうなを意味する『かばちたれるな』が口癖で、いつも大好きな『遠山の金さん』『水戸黄門』『西部劇』を見ていました」

香は鶴岡の監督像を「よく人を観察していた。勝負師なので負けたくないけど、相手にも花を持たせたような気がします」と独自の見方をした。

鶴岡は49年7月3日に長女の千鶴子を事故で失っている。1歳7カ月。母きくが一緒に散歩に出た際、長男の泰に気をとられた隙に線路に入った。次の瞬間、南海電車にはねられた。厳しさに愛情を注いだチームが「鶴岡一家」と称されたのは、悲痛に暮れた家庭事情と無縁でなかったかもしれない。

74年3月22日に結婚した泰は4月にPL学園監督に就任した。「オヤジからは『監督はおまわりさんのように選手を交通整理し、看護師みたいに親身になれることが大切だ』と教えられた」。甲子園初勝利した後のお立ち台でのインタビューに「『何が守りの野球じゃ』と叱られた。無死一塁からバントで二封ならいいが、1死二塁では守りの野球と言わないというわけです」といった。

78年夏の大会で初優勝を飾った“逆転のPL”は西田真二、金石昭人の好投手を擁した。監督の泰は鶴岡が杉浦を4連投させて巨人を下した教訓にならって西田をフル回転させて頂点に立った。

「オヤジも“ここ”で杉浦さんを使わないと勝てないと踏んだんだと思います。いつも『試合の流れを変えるのは大変』と言ってましたからね。監督は“ひらめき”がないと勝てないんだなと痛感しました」

また、香は「東京が大嫌いでした。用事があってもいつも日帰りで、家に帰って『茶漬けくれ』という父でした」と話した。“東の巨人”を意識した鶴岡らしかった。

今、史上最多勝監督の鶴岡は大阪・堺の西本願寺堺別院で眠っている。「親分のそばに墓を建ててほしい」といった杉浦が寄り添い、その近くに一緒に南海で戦った黒田一博(元広島黒田博樹の父)がまつられている。

南海キャンプ地の広島・呉二河(にこう)野球場は「鶴岡一人記念球場」と愛称がついている。19年ネーミングライツ(命名権)を取得した大之木建設代表取締役会長の大之木雄次郎(75)は、父の一雄と鶴岡が刎頸(ふんけい)の友だった縁で企業名でなく、功労者の名に固執した。

「鶴岡さんは呉から生まれた英雄で、名誉市民賞を贈ってたたえられるべき偉人です。その名を永遠に残してほしい」

雄次郎と鶴岡が生まれ育った町を巡った。固い絆と団結力、親分と称された統率力で南海を、パ・リーグをけん引した男。その黄金伝説がよみがえってくるようだった。【編集委員・寺尾博和】

(敬称略、おわり)

◆鶴岡一人(つるおか・かずと)1916年(大5)7月27日生まれ、広島県出身。46~58年の登録名は山本一人。広島商では31年春の甲子園で優勝。法大を経て39年南海入団。同年10本塁打でタイトル獲得。応召後の46年に選手兼任監督として復帰し、52年に現役は引退。選手では実働8年、754試合、790安打、61本塁打、467打点、143盗塁、打率2割9分5厘。現役時代は173センチ、68キロ。右投げ右打ち。65年野球殿堂入り。監督としては65年限りでいったん退任したが、後任監督の蔭山和夫氏の急死に伴い復帰し68年まで務めた。監督通算1773勝はプロ野球最多。00年3月7日、心不全のため83歳で死去。

<取材後記>名将のルーツを取材して驚かされたのは、広島・呉が約40人ものプロ野球人を輩出していることだ。鶴岡さんは五番町小学校、近くの二河小学校に通った同学年に“ミスタータイガース”の藤村富美男さんがいた。

さらに古くなると、中日山本昌さんが塗り替えるまで、阪急のプレーイングマネジャー、48歳4カ月の史上最年長勝利記録を保持した浜崎真二さんも呉生まれ。大之木雄次郎さんは「海軍工廠(こうしょう)が影響をしている」という。

大日本帝国海軍の技術を結集して戦艦「大和」が建造されたように、呉は海軍の町で知られる。地元の記録によると1899年(明32)、海軍中尉の山田佐久が体力増強のために野球チームを編成し、それを広めたとされている。

射撃場の空き地で野球を志し、それが移転した跡地に1914年(大3)にできたのが、今の「鶴岡一人記念球場」。昭和初期は海軍を中心とした30チームが野球を楽しんだようだ。大之木は「野球王国ですね」と話した。

ヤクルト、西武を率いた広岡達朗さんも、鶴岡さんと同じ五番町小学校出身であることも分かった。かつて栄えた軍港をたどりながら、名選手、名監督を生んだ原点に触れた気がする。

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