幕内経験者の人気力士で、東幕下4枚目の炎鵬(31=伊勢ケ浜)が、3連勝で5勝1敗とし、3年ぶりの関取復帰に前進した。西十両14枚目荒篤山と3年ぶりの顔合わせ。取組前までの対戦成績は6戦全勝で、合口の良い相手をまたも破った。相手のかち上げの立ち合いで、懐に潜り込むことはできなかったが、左に動きながら突き落とし。荒篤山は負け越しが決まり、来場所の幕下転落が確実となった。
「自分を信じて土俵に立った。もう、覚悟は決まっていた。自然と体が動いた。すごく大きな1勝」と、冷静な口調で振り返った。取組内容は「覚えていない」というが「久しぶりに、これだけの歓声をいただいて、ありがたい。あきらめずに、やってきててよかったなと感じました」と、ファンの後押しに感謝した。
炎鵬は自力で、28人いる十両の1枠をこじ開けた格好だ。荒篤山に加え、10日目までで全敗の剣翔、11日目から休場で9敗以上となる島津海と、少なくとも3人は幕下に転落することが確実な状況。幕下から十両への昇進の優先順で、3番手に入るかどうかの当落線上といえる。残る1番、七番相撲は昇進を争う幕下上位同士のつぶし合いという、割が組まれる可能性も高い。炎鵬がもう1勝、上積みできれば、十両再昇進を勝ち取る可能性は高まる。
1031日ぶりの十両土俵も重なり、燃えないわけがなかった。部屋で結ってから会場入りした、3年ぶりの大銀杏(おおいちょう)は「うれしいような、懐かしいような、恥ずかしいような。いろんな感情がありました」という。何度も塩をまくなどの十両の所作は「気持ちをつくる上で、土俵での所作が多い分『やっぱりいいな』という気持ちはあります」と、思い出すものがあった。
7場所連続休場で、序ノ口まで一気に番付を落とす前に、最後に土俵に立ったのは23年5月22日。西十両3枚目で臨んだ夏場所9日目だった。十両貴健斗に押し倒され、翌10日目から休場。当初は「頸部(けいぶ)椎間板ヘルニアで約3カ月の加療を要す」との診断書を提出したが、脊髄損傷の大けがだった。医師には「相撲はあきらめてください」と、引退勧告された。後日、炎鵬が明かしていた。「引退を考えたことは…。ありました。何十回、何百回も」。だが、あきらめなかった。あきらめたくなかった。
長期離脱中の序盤は「体の動かし方が分からなくなった」と、寝たきりの生活を強いられた日々だった。さらに24年には、故郷の石川県が甚大な被害に遭った能登半島地震があった。弟弟子の元幕内北青鵬の暴力問題で、当時所属していた宮城野部屋は閉鎖、伊勢ケ浜部屋に移籍もした。大きなショックを受ける出来事が続いたが、どんな試練も力に変えた。
能登半島地震からほどなく「ふるさとでこういうことがあって、気持ち的に動かされた。少しでも自分ができることで、力になれたら。こんな大変な時でも自分を気にかけてくれる人たちがいる。少しでも恩返しできたら」と話していた。出場できない、もどかしさを抱えながらも、心は故郷とともにあった。
部屋の移籍も、当時の横綱照ノ富士(現伊勢ケ浜親方)と同部屋になり、金言を授かった。大関から序二段まで番付を下げた後、横綱まで上り詰めた経験から「このままじゃ無理だよ。その番付なりの相撲しか取れない」と、覚悟の足りなさを指摘された。恐怖心が完全に消えるまで、たっぷりと稽古を重ね、再起の土俵を目指してきた。環境の変化をプラスに受け止め、過去の自分を乗り越えるための決意が強まった。
たどり着いた420日ぶりの復帰土俵、序ノ口で臨んだ24年名古屋場所の一番相撲では、日大出身の清水海に敗れた。取組後は「たくさんの方、皆さんに感謝しかないですね」と、声を震わせて話し、涙を流した。その1年半後の先場所では、六番相撲で左足首2カ所を骨折した。勝てば関取復帰が確実だった、幕下優勝を懸けた七番相撲で延原に敗れ、土俵上で大の字になった。それでも心は折れなかった。
「必ず関取に戻ります」。序ノ口で再起して間もないころから、炎鵬は断言していた。19年名古屋場所で技能賞を受賞し、三賞受賞後に初めて序ノ口土俵に立った力士となった。それでも屈辱などと思ったことはない。炎鵬にとって相撲とは-。「自分の生きがいですね。相撲に生かされている。相撲がなかったら、今の自分はない。相撲に全てを懸けていきたい」。きれいごとではなく、心からの言葉だということは、鋭い目つき、力のこもった口調から明白だった。
まだ他の力士の成績次第で、関取復帰が「確実」とはいえない。それは誰よりも炎鵬が分かっている。この日の取組後も言った。「あと1番、死ぬ気でやりたいと思います」。まだまだ気を緩めるつもりはない。【高田文太】

