昭和40年代の浅草を舞台に、ビートたけし誕生秘話を描いたNetflix映画「浅草キッド」(劇団ひとり監督)。若き日のタケシ(柳楽優弥)と、その師匠である浅草芸人深見千三郎(大泉洋)の笑いと涙の師弟愛は、昨年12月に全世界独占配信されて以来、Netflix日本ランキングトップ10入りを果たすなど大きな反響を呼んでいる。知られざる深見の人となりや、現在のお笑い界に与えた影響について、実際にステージを見ている演芸評論家西条昇氏(江戸川大教授)が迫った。

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ビートたけしの浅草フランス座における修業時代を劇団ひとり監督が描いたNetflix映画「浅草キッド」が配信されて以来、たけし役の柳楽優弥とその師匠である深見千三郎役の大泉洋の好演もあって、たけしの芸風や芸人としての姿勢に大きな影響を与えた深見千三郎という存在に興味を持った人は少なくないのではないか。


Netflix映画「浅草キッド」/Netflixで全世界同時独占配信中
Netflix映画「浅草キッド」/Netflixで全世界同時独占配信中

戦時中の徴用の事故で左手の指4本を失った深見は、戦後に浅草のストリップ劇場の軽演劇や幕間コントで活躍するが、仲間の多くがテレビに進出する中で浅草に1人残り、世間的には無名のまま火事によって59歳で世を去った。

私は中学1年だった昭和52年に、深見が背を向けたと言われるテレビで、初めてその存在を知った。番組名は「浅草喜劇祭」。当時54歳の深見は浅草ロック座時代の後輩にあたる東八郎とコント「犯人違い」を披露した。

アロハシャツ姿の東が女性の手を取って「ちょっと付き合えよ」と引き寄せようとする。「キャーッ!」と叫ぶ女性。そこへ、黒縁眼鏡にチョビヒゲ、警官に扮(ふん)した深見が勢い良く登場して東を女性から引き剥がして突き飛ばし、「テメエみたいなのがいるから、こっちは忙しくてしょうがねえんだ、コノヤロー」と、意地悪く東の尻に膝蹴りを入れる。その後、拳銃で東を脅しつつ、やたらに口汚く「テメエ、バカヤロー、コンチキショー、コノヤロー」を連発しながら居丈高に事情聴取。女性に「コノヤローに何をされたか言ってみなさい」と言うと「あの、別に何もされてません」。東の無実が分かって立場逆転。東は遠慮なく深見の肩口をバンバンとたたき、「一緒に警視総監のところに行って言いつけるから」と連れて行こうとすると、深見はとたんにペコペコして「それだけは勘弁して下さい」。そこから東が手帳を出して尋問するが、深見がボケを連発する、そんなコントであった。

当時テレビで売れていた東八郎と火花を散らす丁々発止の掛け合いをして引けをとらない、このアクの強いオジサンは何者なんだ…。


「東八郎お笑い生活25周年公演」のプログラムより。友情出演した深見千三郎の顔写真(上)が掲載されている(西条昇氏提供)
「東八郎お笑い生活25周年公演」のプログラムより。友情出演した深見千三郎の顔写真(上)が掲載されている(西条昇氏提供)

その2年後の昭和54年10月。今度は深見の生の舞台を見る機会が訪れた。浅草松竹演芸場での東八郎芸能生活25周年記念公演に足を運んでみると、深見が友情出演していたのだ。深見は第1部の演芸コーナーで東とコントを披露し、メインの喜劇では東扮する故郷に帰った旅がらすの親分の敵役を演じた。舞台での深見と東の掛け合いはテレビ以上にアドリブ満載で、互いに面白さを引き出していた。今から思えば深見の4本の指のない左手には包帯が巻かれていたのだが、その時は全く気づかなかった。

また、この時の演芸コーナーにはツービートも出演して毒ガス漫才を披露しており、今回の映画の登場人物のモデルとなった4人を一度に見ていたことになる。

それから半年がたった昭和55年春にはテレビを中心に爆発的な漫才ブームが起こり、ツービートは一躍、人気コンビに。翌56年1月に始まった「ビートたけしのオールナイトニッポン」で若者たちの笑いのカリスマとなったたけしは、番組中に時折、「深見の師匠が…」「深見のオトッツァンが…」と浅草フランス座で修業したころのことを口にしてみせた。たけしはあの深見千三郎の弟子だったのか、そう言えば早口で「バカヤロー」を連発する口調がソックリだな…と思ったものだ。


「東八郎お笑い生活25周年公演」のプログラムより。1部にはツービート、3部には深見千三郎の名前もある(西条昇氏提供)
「東八郎お笑い生活25周年公演」のプログラムより。1部にはツービート、3部には深見千三郎の名前もある(西条昇氏提供)

そして、昭和58年2月2日の読売新聞夕刊の<浅草軽演劇35年 深見さん “笑いの師匠”孤独な焼死 ビートたけしさんら育て 一人暮らしアパート火事>と題した顔写真入りのかなり大きな記事で、その日の早朝の火事による深見の死を知った。

たけしは、昭和61年の「たけし!ーオレの毒ガス半生記」(講談社)、同62年「ギャグ狂殺人事件」(作品社)で深見について触れ、同63年には深見との師弟関係を中心に今回の映画の原作となる「浅草キッド」(太田出版)を刊行。更に平成30年にも「フランス座」(文藝春秋)で浅草での深見とのことを書いている。

私は浅草喜劇や軽演劇の残像を追い続ける過程で、当時の関係者に話を聞いてまわり、劇場プログラムなどの資料収集をするうちに、深見千三郎という喜劇人の人生に益々興味を持つようになった。

本名は久保七十二(なそじ)。大正13年3月31日に北海道の浜頓別町で生まれ、樺太(サハリン)で育つ。高等小学校卒業後、「あゝそれなのに」「うちの女房にゃ髭がある」などのヒット曲を持つ“歌う浅草芸者”美ち奴として映画や舞台で活躍していた姉を頼って上京。浅草にある姉の芸者屋に住み、問屋に奉公に行くが3日と続かず、日本一の盛り場で劇場街だった浅草六区に通い続ける。レヴュー喜劇の劇場の楽屋に出入りし、映画館で見たフレッド・アステアのミュージカル映画に憧れてタップダンスを習った。

やがて姉に時代劇映画の大スターであった片岡千恵蔵を紹介され、日活京都撮影所で斬られ役の日々を過ごす。


Netflix映画「浅草キッド」/Netflixで全世界同時独占配信中
Netflix映画「浅草キッド」/Netflixで全世界同時独占配信中

しばらくして浅草に戻ると、浅草オペラ館のレヴュー喜劇の劇団「ヤパンモカル」の大部屋役者となる。昭和4年に旗揚げの「カジノ・フォーリー」で売り出したエノケンこと榎本健一も、同8年旗揚げの「笑の王国」の中心だった古川ロッパも、相次いで東宝に引き抜かれて活躍の場を日比谷の劇場に移し、同12年からオペラ館「ヤパンモカル」の座長としてエノケン・ロッパの去った浅草で頭角を現していたシミキンこと清水金一も同15年に東宝映画に引き抜かれていた。

手元にあるオペラ館のプログラムでは、日米開戦2カ月前の昭和16年10月から翌年8月までの物に“深美千三郎”の名前が見られる。つまり、美ち奴の“美”と片岡千恵蔵の“千”を取ったのだろう。

レヴュー喜劇・軽演劇の役者として、客席から「千ちゃん!千ちゃん!」といった掛け声が飛ぶようになった矢先に深見は軍需工場に徴用され、指4本を失った。

のちに周囲の人たちには「兵隊に行かなくて済むように旋盤で指1本落とそうと思ったら、4本落としちゃったよ」と冗談めかして語ったと言われる深見だが、実際の心の中はどうだったか。

指の傷が癒えたころに舞台復帰。渋谷ジュラクでの益田喜頓一座を経て、自ら旗揚げした一座を率いて北海道で公演を重ねるうちに、日本は終戦を迎えた。昭和21年には一座の女優との間に女児を授かるが、同年に一座を解散してほどなく破局。

深見が、明治大学中退後に新宿から浅草へたどり着いた無口で暗い北野武という青年と出会うのは、それから26年も後のことである。


<深見千三郎という男 2>

<深見千三郎という男 3>


◆西条昇(さいじょう・のぼる)1964年、東京生まれ。江戸川大学教授。専門はジャニーズ、お笑い、喜劇、ストリップなどを中心とした「舞台芸術」と「大衆芸能史」。新聞・雑誌へのコメントと執筆、テレビ出演も多数。著書に「ニッポンの爆笑王100」など。https://saijo-noboru.blog.ss-blog.jp/