レビュー喜劇・軽演劇の役者を志して昭和16年に浅草オペラ館の舞台に立った深見千三郎がなぜ、晩年にストリップ劇場である浅草フランス座の舞台と裏方を取り仕切る立場となり、Netflix映画「浅草キッド」で描かれたように、のちのビートたけしの「師匠」となったのか。

答えは簡単で、昭和20年半ば以降、軽演劇の若手・中堅の役者にとって舞台で芸の修業をする場がストリップ劇場しかなくなってしまったことがその要因と言えるだろう。

同22年の元旦に開場した新宿帝都座五階劇場での歌あり踊りありコントありのレビュー「帝都座ショウ」において額縁の中で上半身裸の女性に名画のポーズを取らせた場面が“額縁ショウ”と呼ばれ、爆発的な評判となる。


Netflix映画「浅草キッド」/Netflixで全世界同時独占配信中
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同年8月1日には現在まで続く浅草ロック座が開場し、「帝都座ショウ」を上演。翌23年5月から、のちに流行語「アジャパー」で一世を風靡(ふうび)する伴淳三郎がロック座の専属劇団の座長に就任している。その頃には、立ったままで動かない額縁ショウから上半身裸で踊る“裸ショウ”に発展し、やがて観客をじらしながら脱いでいくストリップ・ショーが大流行。それまで軽演劇を上演していた浅草をはじめとする都内の劇場の多くがストリップを興行の目玉に据えた。

そのあおりを受け、戦前からレビュー喜劇・軽演劇を代表するロッパ一座が昭和24年、エノケン劇団が同25年、新宿ムーランルージュが同26年に相次いで解散。座長・幹部クラスが映画や大劇場への単独出演に活路を求めたのに対し、若手・中堅はストリップ劇場の専属役者となって、踊り子たちよりも格段に低い出演料で、ストリップ・ショーに数カ所入る幕間コントや同時上演される1時間前後の軽演劇に出演し続ける道を選んだ。

自分の一座を昭和21年に解散した深見千三郎は、同24年に浅草小劇場のレビュー劇団「浅草フォリー」に出演したが、ストリップの引き立て役になることを拒むように浅草を去り、舞踊劇の前澤稲子一座や大衆演劇の青柳竜太郎一座の舞台に立っている。


Netflix映画「浅草キッド」で鈴木保奈美が演じた麻里こと紀の川あやさんのストリップショーチラシ(西条昇氏提供)
Netflix映画「浅草キッド」で鈴木保奈美が演じた麻里こと紀の川あやさんのストリップショーチラシ(西条昇氏提供)

一方、ロック座を軌道に乗せた興行会社の東洋興業は、昭和26年8月に現在の浅草演芸ホールのある1階~3階部分に浅草フランス座を開場。次いで、同27年10月に新宿フランス座、同31年10月には池袋フランス座を開場し、各劇場に8人前後のコメディアンを所属させて文芸部も設けた。

同31年10月に浅草フランス座の文芸部員となった作家の井上ひさしは、のちに浅草フランス座を「ストリップ界の東大」と述べたほか、ロック座を一橋大、新宿フランス座を早大、池袋フランス座を立教大に例えている。なぜ、浅草フランス座が東大なのかと言えば、飛び抜けて多くの優れた喜劇人を輩出しているからに他ならない。すでにテレビ放送が同28年に開始されており、八波むと志、南利明、佐山俊二、渥美清、谷幹一、関敬六、長門勇らが次々にテレビに進出して注目されていった。

東洋興業は昭和34年11月に浅草フランス座を建物の4~5階部分に移し、階下には軽演劇主体の東洋劇場を開場する。同35年に東洋劇場の研究生となり、1年間にわたって先輩の東八郎にツッコミ芸をたたき込まれた萩本欽一は、階上のフランス座に移籍後にそこで坂上二郎と出会い、のちにコント55号を結成している。

青柳一座を退座した深見がロック座の専属となったのは昭和33年のことで、この時には芸名が“深美”から“深見”になっていた。ロック座には東洋劇場に移る前の東八郎がおり、深見のツッコミ芸に大きな影響を受けた東は深見のことを尊敬と親しみを込めて「師匠」と呼んだ。とは言え、厳密な意味での師弟関係ではなく、もともと東はフランス座に特別出演していたオペラ歌手の田谷力三を紹介されて弟子になり、その後はフランス座で「あらいやだコンビ」と呼ばれたツッコミの八波むと志とボケの佐山俊二のどちらかが休んだ時の代演をするうちにツッコミとボケの両刀使いに。テレビではボケを演じることが多かったが、幕内ではツッコミの達人として知られ、初期の「志村けんのバカ殿様」では家老の爺(じい)に扮(ふん)し、見事なツッコミ芸を披露した。その東が「師匠」と呼んだことで、東の後輩たちも皆、深見のことを「師匠」と呼ぶようになったのだ。


Netflix映画「浅草キッド」/Netflixで全世界同時独占配信中
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ロック座での深見は1時間前後の笑いと涙の人情喜劇でしっかりとした芝居をしつつ、ストリップ・ショーの幕間には鳥打ち帽にニッカーボッカー姿で登場する「監督のコント」で周りの役者たちへのツッコミが冴(さ)えわたった。

昭和40年前後には東洋興業の劇場に出演していた役者たちが、てんぷくトリオ、トリオ・ザ・パンチ、ナンセンストリオといったコントのトリオを結成してテレビ演芸ブームの波に乗ると、東八郎もトリオ・スカイラインのリーダーとしてテレビの人気者に。数年遅れて売り出したコント55号も、彼らを追ったストレート・コンビも、東洋興業の劇場出身者であった。

そうした中で無遅刻無欠勤で舞台に立ち続けた深見は、1人の踊り子と出会う。

葵麻里。今回の映画で鈴木保奈美が演じた麻里のモデルである。「葵浮世絵ショウ」のスターとして全国各地を回っていた麻里はロック座に出演した際、深見と酒好き同士で深い仲となり、結婚。ロック座の専属となった麻里は芸名を「紀の川あや」に改めた。

昭和40年代半ばには、山形県出身の兼子二郎がタレント養成所の先輩の紹介でロック座に入座。のちのビートきよしである。

その間、ストリップ界は大胆に露出する“関西ストリップ”が席巻して関東の劇場にも進出を果たし、露出の少ないレビュー形式のストリップを見せる都内の劇場には閑古鳥が鳴き始めていた。東洋興業は、昭和39年8月に浅草フランス座を一度閉館し、そこに浅草演芸ホールを開場したのに続いて、新宿フランス座と池袋フランス座も閉館する。そして、同46年4月、ロック座の経営を踊り子の東八千代(本名・斎藤智恵子)に任せ、翌年には正式に売却。同時期に東洋劇場も閉館して階上の演芸ホールを階下に移し、階上に浅草フランス座を復活させている。


Netflix映画「浅草キッド」/Netflixで全世界同時独占配信中
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浅草フランス座の経営を任された深見は紀の川あや、きよしらと共にロック座から移ってきた。フランス座は舞台面積が狭く、きちんとしたセットが組めないため、軽演劇の芝居は行えない。8人前後の役者がいたロック座時代に比べ、フランス座では3~4人。1つのショーの中に数カ所あったコントを、20分ほどのコント1本のみとした。

翌47年夏、ふらりと浅草にやってきたたけしはフランス座を訪れ、エレベーターボーイとして働きはじめる。そして、深見に芸人になりたいと告げるが、なかなか許可が出ない。芸人だったらこのぐらいできなきゃな…と深見が踏んでみせたタップダンスのステップを、エレベーターの中でひたすら練習する日々が続いた。

そんな時、突然、たけしに初舞台のチャンスが訪れた。


<深見千三郎という男 1>

<深見千三郎という男 3>

◆西条昇(さいじょう・のぼる)1964年、東京生まれ。江戸川大学教授。専門はジャニーズ、お笑い、喜劇、ストリップなどを中心とした「舞台芸術」と「大衆芸能史」。新聞・雑誌へのコメントと執筆、テレビ出演も多数。著書に「ニッポンの爆笑王100」など。https://saijo-noboru.blog.ss-blog.jp/