08年夏、ジュニアの有力選手を集めた長野・野辺山での全日本合宿で目覚めた。羽生結弦はノービス時代、3回転ジャンプを次々に習得したが、さらにトリプルアクセル(3回転半)だけは跳べなかった。その合宿で初めて会ったのが、当時17歳の浅田真央。力まないふわっと浮き上がるジャンプを見て「力って、いらないんだ」と気付いた。試しに浅田の跳び方をまねて、軽く跳んでみると、1回で成功。氷の上を転げ回って、喜んだ。

 10年3月には世界ジュニア選手権で優勝。日本男子4人目の快挙を成し遂げた。地元仙台に帰り、宮城県庁を表敬訪問すると宣言した。「スケート界のレベルを上げるには、3回転半より4回転を跳ばなくてはいけない」。試合ではまだ4回転を成功していなかったが、男子の進化を既に思い描いていた。

 10年4月、羽生はダルビッシュ有や宮里藍、荒川静香らを輩出してきた東北高スポーツコースの1年生となった。シニアデビューを控え、当時社会を教わっていた現野球部監督の我妻敏(35)に「先生、僕は高橋大輔選手に勝ちます!」と話し、驚かせた。10月、初のGPシリーズNHK杯に出場。フリーで初めて4回転ジャンプに成功し、4位に入った。翌年2月の4大陸選手権では優勝した高橋に次ぐ2位。シニア1年目でトップとの差を急激に縮めていった。

 「ソチ五輪の星」として注目され始めたが、氷から下りれば、1人の素朴な男の子だった。リンクで朝の練習が終わると「手伝っていいですか」と率先して貸し靴コーナーに入り、スケート教室に来た子どもたちに靴を渡した。試合のため、学校を欠席することは多かったが、勉強の時間を捻出し、テストでは常に学年トップをキープした。いつも机を合わせて、昼食の弁当を食べていた当時野球部の内海航(22)は「お互いの練習とか、好きな女の子の話をしたりしました」と振り返る。

 だが、シニア2年目に向け仙台で順調に成長を続けていた11年3月、未曽有の震災に見舞われた。(敬称略=つづく)【高場泉穂】