【レジェンドのその後】幻のチャンプ矢尾板貞雄 40年以上続ける「試合分析ノート」は52冊

一線を退いてもまだまだ元気だ! 往年の名選手、指導者の気になる今を紹介する「レジェンドのその後」を蔵出し配信。今回は元日本、東洋フライ級王者、矢尾板貞雄さんです。(2018年4月17日紙面より。年齢、所属など当時)

レジェンドのその後

首藤正徳

<ボクシング元日本、東洋フライ級王者>

プロボクシング元日本、東洋フライ級王者の矢尾板貞雄さん(82)は、引退から半世紀以上たった現在も試合会場に通い続けている。今よりずっと世界が遠かった昭和30年代に一時代を築き、日本国民の期待を一身に背負って世界と拳を交えた。惜しくも世界王座には届かなかったが、引退後は鋭い観察眼でボクシング評論家として活躍。40年以上書き続けている『試合分析ノート』が人生の生き甲斐になっている。

◆矢尾板貞雄(やおいた・さだお)1935年(昭10)11月28日、東京・渋谷区生まれ。55年9月にプロデビュー。58年に日本と東洋のフライ級王座獲得。62年10月に同級世界王者ポーン・キングピッチ(タイ)への挑戦が決まっていたが、同6月の東洋王座防衛戦後に突然引退を表明した。戦績は66戦53勝(7KO)11敗2分け。引退後はサンケイスポーツでボクシング評論家、競馬記者として活躍。フジテレビでも長くボクシングの解説を務めた。64年10月の博子夫人(80)との披露宴はフジテレビが中継した。2男をもうけ、3人の孫がいる。

矢尾板貞雄さんが40年以上も書き続けている試合分析ノート

矢尾板貞雄さんが40年以上も書き続けている試合分析ノート

「全部覚えている」長谷川穂積の試合も

矢尾板さんの試合分析ノートは今年で52冊目になった。大学ノートに対戦カードと選手のパンチの種類がラウンドごとに細かく書き込まれ、自分の採点と感想も記されている。「タイトル戦に限らず、自分が目を付けた選手の試合も書き残します。そんな選手が成長してくれるとうれしいね」。世界3階級を制覇した長谷川穂積もその1人。

1冊目の最初の試合は77年元日の世界フライ級タイトルマッチ。以来41年間、欠かしたことはない。会場で紙にメモを取り、翌朝、試合を思い出しながら大学ノートに清書する。「そうすると忘れないの。選手のタイプから持ち味まで全部覚えている。今はこれを書かなきゃ気が済まない」。ジム関係者から対戦相手についての問い合わせもよくあるという。

ボクシング 矢尾板貞雄 (中村) 撮影日不明

ボクシング 矢尾板貞雄 (中村) 撮影日不明

突然の引退表明にも悔いはなし

現役時代は華麗なフットワークを武器に、フライ級では国内無敵だった。59年1月、ノンタイトル戦で7度防衛中の同級世界王者パスカル・ペレス(アルゼンチン)に判定勝ち。白井義男以来、日本2人目の世界王者誕生の期待が一気に高まった。しかし、同11月に大阪で行われた世界戦では、ペレスから2回にダウンを奪いながら、13回KO負けを喫した。

「2回に奪ったダウンが致命傷。それほど効いていないのが自分でも分かった。なのにセコンドが『いけっ!』と。怒られるから、いくしかない。あれで自分のペースが狂った」。当時は統括団体も1つで全9階級。壁はとてつもなく高かった。敗れたとはいえ、中継したテレビの視聴率は実に92・3%。注目度も今とは比較にならなかった。

62年10月に世界再挑戦が決まったが、試合4カ月前に突然、引退表明。持病の神経痛の悪化と、自尊心を傷つけるような所属ジム会長の言動に耐え切れなくなったのが原因だった。皮肉にも代役で挑戦したファイティング原田が世界王座を奪取したが、「あの決断に悔いはない。やることは全部やったもの」と後悔はない。

後楽園ホールでリングサイドの関係者席で笑顔を見せる矢尾板貞雄氏(撮影・狩俣裕三)

後楽園ホールでリングサイドの関係者席で笑顔を見せる矢尾板貞雄氏(撮影・狩俣裕三)

12年前に甲状腺機能に異常をきたし、甲状腺眼症の手術を受けた。今も毎朝4錠の薬が欠かせないが、「それ以外は大丈夫」。もっとも健康のために特別していることはない。「ボクシング会場に通うのが体にいいんじゃないのかな。今は試合を見て、ノートに書くことが、生き甲斐になっているんですよ」。評論活動のための試合分析ノートが、いつの間にか矢尾板さんの元気の源になっている。