昨シーズンをもって現役引退した、現川崎フロンターレFRO(Frontale Relations Organizer)の中村憲剛さん(40)。日本サッカー界の“レジェンド”中村さんには、中学時代に約1年間だけ所属し、やめてしまったサッカークラブがある。東京・府中市を拠点とするFC府中U-15(当時は府中JYFC)だ。中村さんは自著などで公表しているものの、公式ブログの経歴などにも記されておらず、あまり知られていない過去だ。
■石川代表語るFC府中1期生
当時の中村さんを知り、同クラブの創設者で代表を務める石川慎二郎さん(67)に、中学時代の中村さんの話を聞いた。
「身長はチームでも1番小さかったかな。でもテクニックがあったね。チームの中心選手。試合中のファイティングスピリットはすごいものがあったけど、普段やんちゃで困ったっていうイメージはないかな」
Jリーグが誕生した1993年(平5)に設立されたチーム。中村さんは1期生として中学1年で加入したという。
「憲剛が小学校の時に所属していた府ロク(サッカークラブ)の先生から、中学生のチームを作れと指令があって。当時中学校の部活では、思いっきりサッカーができないという状況もあったから。府中少年サッカー連盟で、指導するチームを持っていないのが自分だけだったので白羽の矢がたちました」
小学校教員でもある石川さんは、70年代から東京・府中市の少年サッカーの発展に身をささげ、地域選抜の指導などにも携わっていた。埋もれている子を引っ張り上げたいという思いでチーム設立の大役を引き受けた。
「そうはいっても、何しろ1期生だったから、環境がひどくてね。平日のナイター練習は、府ロクが練習した後にあとに週2日。ナイターといっても今考えたら『こんな暗いところで何やっているの?』っていうレベル」
ホームグラウンドの府中少年サッカー場は、大人用のゴールがグラウンドの端に追いやられていて、土日練習のたびに全員で、鉄製の重いゴールを運ばなければならなかったという。
「夏の合宿も行くあてがなくて、府ロクの小学生の合宿について行った。府ロクの使っているグラウンドの隅っこで練習してね。6畳の部屋に8人くらいで寝て…」
■チームの中心選手が退団
中村さんの自著には夏頃に、自身のプレーがうまくいかず、チームをやめてしまったと記されている。
「憲剛の思い違いかなと思うんだけど、冬まではチームにいたと記憶しているんだよね。自分が仕事でどうしてもいけなかったムスタング招待という大会があって、憲剛のお父さんにも引率を手伝ってもらった。伝聞なんだけど、その大会で憲剛がPKを外して負けて、仲間からいろいろ言われたと。環境もひどかったし、それでいやになっちゃったのかな」
確かに「平成6年3月27日」という日にちが記されているチームの活動報告資料には「中村憲剛」と名前が記されている。チームの中心選手であった中村さんの退団には驚いたという。
「絶対に次の年もいるかなっていう時にやめちゃったからショックだった。でもまあやめたいっていうのを止めるのもね。やめる要素はあった。自分は1年目でチームを維持するので精いっぱいだったからね…」
石川さんは少し申し訳なさそうな表情を浮かべた。チーム退団後、中村さんは通っていた中学校のサッカー部に入り、都久留米高校(現・東久留米総合)、中大サッカー部、川崎Fとサッカーを続けた。
「うちをやめたから、中学校でのびのびやって、自分なりに工夫して、高校、大学で花開いたのかな。指導者としては悔しいけど、変な教え方をされなかったから、あれだけ日本代表で活躍できる選手になれたのかな。自分でつかんだんだって思うね」
■ボールを触ろうとする工夫
指導した中での1番の思い出を聞いた。
「忘れもしないのは、ボールが来るでしょ。ボールの落下点に寄っていくんだけど、1メートル半くらい前にボールがあるときに、後ろから来る相手に向かって下からギューンってぶつかるんだよ。それで相手を遠ざけてボールを触るんだよ。小さい体ながらも、どうにかしてボールを触ろうっていう工夫をする子だったね」
中村さんが1期生としてチームに加入した93年に生まれた記者は、06年にFC府中に加入した。石川さんからは、当時のオシムジャパンに選ばれ始めた“先輩”中村さんの中学時代の話をたびたび伝えられた。
「高根の花じゃなくて、身近にいるからねっていうことを伝えたかった。確かに1年しかいなかったけど、このグラウンドで頑張って練習をして、当時脚光を浴びていなくてもあれだけ大活躍できる選手がいるんだよっていう意味でね」
中村さんは中学時代、府ロク出身の選手らしく、ドリブルが得意な選手だったというが、プロでは名パサーとしてならした。
「当時も足が特別速かったわけじゃないし、体も小さかったから自然と工夫して、良いポジショニングとパスが得意になっていったんじゃないかな。ただ、当時も周りをよくよくみていてパスセンスは良かったな」
03年のプロ入りから18年間、川崎一筋。日本代表としての活躍やJリーグMVPなど、功績は語りきれない。昨年12月の引退セレモニーは、いちJリーガーの枠を超えた催し事だった。
「1つはごくろうさまっていうこと。あとは1年弱だけど、自分が関わった選手が日本のトップで活躍する姿を見せてくれた事が、地域のいち指導者としてうれしいね」
■ハンディはチャンスの指導観
中村さんは、引退セレモニーで「体の小ささや身体能力とかはハンディじゃないということ。おそらく小中学生、高校生、悩んでる子はいっぱいいると思います。でもそうじゃないと僕のキャリアが言ってます。みんなに可能性があります。自らふたをしてほしくないし、指導者の方も小さいから使わない、足が遅いから使わない、そういう目線で見ないでほしいと心から願っています。逆にそのハンディをチャンスだと思ってください」と子どもたちや指導者に呼び掛けていた。この指導観は石川さんとも重なる。
「自分は『小さいけど、技術がある選手』に目がいく。そういう子が体が大きくなったときに活躍してくれるとうれしいなって。うちのチームの子は高校年代になって活躍する選手が多いってよく言われる。そういう子の方が絶対に伸びしろがあるって思っているんだよね」
実際、中1当時の身長が138センチだった記者は同クラブに拾われ、大学までサッカーを続ける礎を作ってもらった。中村さんは、今後指導者として活躍することも期待されている。
「地元に根ざした、サッカー好きな子たちに夢を与えるような、そういう環境作りを頑張って欲しいなって1番思うね。どうしても、強いチームに目がいきがちだけど、どこにもいい子はいるから。そういう子が夢と希望がもてるチャンスを与えるような環境をつくってあげて欲しいな」
中村さんが1年しか所属していなかったクラブ創設者の指導哲学を解き明かすと、中村さんが体現してきたキャリアは非常に示唆に富んでいた。【佐藤成】
◆佐藤成(さとう・せい)東京都出身、19年入社の27歳。小学2年からサッカーを始め、東京学芸大蹴球部に所属。教師としてサッカー指導者を志すも、急な方向転換で日刊スポーツ新聞社に入社。文化社会部で芸能担当。