<第1部国立で輝いた男たち(1):静岡学園GK森下申一>

 国立から生まれたドラマは数知れない。第92回全国高校サッカー選手権が、30日に東京・国立競技場で開幕する。76年度に首都圏開催となって以来聖地と呼ばれた国立は、来年夏から改修される。日刊スポーツでは「最後の聖地」と題した連載をスタートする。第1部「国立で輝いた男たち」の1回目は、初の国立決勝戦を戦った静岡学園の元日本代表GK森下申一氏(52=磐田GKコーチ)。

 初めての国立を涙でぬらした森下は、36年前を遠い目で思い起こした。初の首都圏開催として、77年元日に開幕した第55回大会。初出場で決勝に進んだ静岡学園は激戦の末、4-5で浦和南に敗れた。森下は当時、静岡学園の1年生GK。卒業後、日本代表としてW杯予選や五輪予選を戦った過去を通り越して「決勝で負けたというのもあるけど、なんか寂しい大会だったな」と記憶をたどった。

 決勝は、病床の父が亡くなったことを知らぬまま戦った。大会直前の12月下旬に父栄(さかえ)さんが、くも膜下出血で倒れた。一方でセンセーショナルな全国デビューを飾ったチームとの間で、16歳の森下は極度の緊張状態だった。病床の父を残し東京へ向かい、1年生ながら準決勝まで4戦1失点と奮闘。初の国立頂上決戦に立つことだけを考えていた。

 夏までは控えGKですごし、静岡県大会直前から抜てきされ「いろんなことがごちゃ混ぜで、ジェットコースターのようだった」。当時はGKながら素手で出場。「当時の手袋はいいのがなくて。感触が悪くて嫌だった。試したんだけどね」と雨中の準決勝八幡浜工戦もその手で白星をつかみとった。今も昔も、国立は限られた人しか立てない特別な場所だった。

 しかし待ち受けたのは、16歳には悲しすぎる現実だった。無我夢中で戦った短期決戦の最中に、栄さんが49歳で亡くなった。1月8日の決戦3日前だ。だが母からは知らされないまま。「決勝戦があるから」という計らいがあったからだ。4-5で敗れ、知らされたのは翌日戻った学校の職員室。負けた悔しさと、父を失った寂しさが重なった大会となった。

 快進撃に沸いた地元では、静岡市役所前で準Vパレードが行われた。胸に遺影を持って立ったが「見せ物じゃない」と悲劇のヒーローにはなりたくなかった。しかし大会が終わって数カ月後、1通の手紙が学校に届いた。報道を通じて経緯を知った外国人からの文面には、励ましの言葉が並んでいた。「何で知ったか分からないけど、訳してもらったら『ぜひ頑張ってください』っていうような内容だった」。今だから思う。

 「あの大会で、サッカーに自信を持てるようになった。今はJクラブが主流になって、高校サッカーのレベルが下がっているなんて言われるかもしれないけど、最後の国立という特別な舞台を目指して頑張ってもらいたい。高校サッカーから本田(圭佑)だって出ている。プロを、世界を目指せるチャンスがあるんだから」

 36年前、Jリーグができるなんて思いもしなかった。W杯も遠い夢だった。高校サッカーの国立が、人々の心をつかみ始めた時代。ラストを迎えた今、誰もが「聖地」と呼ぶ。「GKがよかったら優勝してたよ」と冗談ぽく言うが、1年目の激闘があったから、最後の聖地に重みがある。

 ここから始まった。「聖地・国立物語」が。【栗田成芳】

 ◆森下申一(もりした・しんいち)1960年(昭35)12月28日生まれ、静岡県出身。静岡学園1年で全国選手権準優勝、3年時にも出場。東農大から、83年ヤマハ発動機(現磐田)入り。87年度に日本リーグ優勝に貢献し、GKとして初のMVP。94年からクラブがJ入りを果たしたが、翌年に京都に移籍。97年現役引退。J通算74試合、日本代表通算28試合出場。現役時は180センチ、81キロ。

 ◆全国高校サッカー選手権と国立

 76年度に開催された第55回大会から国立競技場が使用されるようになった。前年までは関西を中心に行われていたが関東開催へ変更。準決勝以降で国立が使われるようになった。翌年の第56回大会の準々決勝1試合は例外的に国立を使用。また99年度の第78回大会から開幕戦も国立になった。