93年5月15日に産声を上げたJリーグは、25歳の誕生日を迎える。これまで節目の記念日には、その門出を祝うパーティーを盛大に開いてきた。14日も、都内で25周年を記念したイベントを開催した。ただ、その趣はこれまでとだいぶ違っていた。

 会場には54卓のテーブルがあり、全54クラブの関係者がそれぞれ分かれて座った。盛大な乾杯のあいさつなどは、まるでない。テーブルには選手やOBも幾人か同席したが、大半はサッカーとは関係がない業界や団体で活動している人たちだった。「できるだけJリーグに関心のない方に来ていただきたくて、ツテを伝ってサッカーとは遠い方に来ていただいた」。

 集まりの主題は「Jリーグをつかおう!」。サッカーに興味がない人たちに、サッカーの可能性をどう感じているか、どう利用価値があると思うか、意見を聞き、そのアイデアを具現化することが目的だった。記念すべき25周年イベントはパーティーではなかった。Jリーグや各クラブを、地域の社会課題を解決する“道具”として利用してもらう方法を考える、研究集会だった。

 きっかけは、川崎フロンターレMF中村憲剛の声だった。日頃、川崎市民らと交流していることから、1年半ほど前に村井満チェアマンと対談したときに思いを伝えたという。「生意気を言わせてもらいました。使っちゃえばいいんじゃないかなって。1つのクラブだけがやってもしょうがない。54クラブありますから、各クラブが同じベクトルを持って日本をサッカーやスポーツで盛り上げて行こうとやれれば素晴らしいこと。まさか、こういう(イベントの)形で返ってくるとは思わなかったので、正直びっくりしました」。

 昨年末、Jリーグの村井満チェアマンはブラジルへ渡り、元日本代表監督でJリーグ発足時に鹿島でプレーしたジーコ氏(65)のもとを訪れた。同氏が長年、続けているチャリティーマッチを見るためだった。

 そのチャリティーは当初、寄付者が1キロの食料や薬を持ち寄り、ジーコ氏が預かって困っている人たちに配る形で始まった。だが、当初は1万人に満たなかった賛同者は年々増えていき、観客が収まり切らなくなった。昨年はとうとう8万人収容のマラカナンスタジアムで開催するまでに至ったという。現在は物から変わり、入場料の収益金を分配する形。だが、ジーコ氏は変わらずに90分間のフル出場。そして、試合後はまた90分間のファンサービスと、1時間のメディア対応をこなしたという。村井チェアマンは振り返った。

 「Jリーグは、ジーコとともに始まったと言ってもいいぐらい、センセーショナルなスタートが切れました。ジーコの精神は今でも、鹿島アントラーズだけじゃなくて日本全体に生きていると私は思っています。25年の節目にあたって、ジーコの母国を訪ねて、サッカーがどうやって町に溶け込んでいるのかを見てみたいと思いました」

 「神様のジーコがそこまでしている。これはジーコがすばらしいと思っていました。だけど、逆に言うと、市民が自分たちで食材を持ってジーコのもとに集まり、町を良くしていくという、そういう感覚も同時にあったからこそ実現できたことだと思いました」。

 「Jリーグを見てみたときに、クラブは懸命にホームタウン活動をやっているんですけれど、我々だけが何かを提供している。それはもしかしたら、我々の自己満足ではないのか」

 「地域には、いろんな社会課題を解決しようとして懸命になっている方がいるのであれば、ブラジルでジーコがそうしたように、我々も門戸を開いて『Jリーグを使おう』という逆の発想で、この運動を始めようと思った次第です」。

 午後0時半から始まった会は4時間続いた。クラブが、子どもや老人も含めた地域住民の交流の場を設けたら面白いのでは、というような案が次々と出された。

 長い時間の会合に「始めは、そんな長いこといられないよと思った」という初代チェアマンの川淵三郎氏は「あっという間だった。それだけ中身の濃い話をしてもらった。本当に有意義な会でした」と感動した。そして「こういう会は1年に1回、開催していった方が絶対いい。この前出された案がどう具現化して、どういうところが問題で、どう発展していったか。これからまた25年続けていけたら、Jリーグがやっている社会貢献、社会還元に理解が進む」と訴えた。

 Jリーグは25歳になり、最初の四半世紀が終わった。次の四半世紀へどう取り組んでいくか。この日、集まったのは300人余り。会場には、デザインを描くだけで終わりには決してするまいという熱気が、漂っていた。