日本サッカー協会が10日、100周年の節目を迎えた。

サッカーの母国、イングランド・サッカー協会からの銀製カップ寄贈を契機に1921年(大10)9月に大日本蹴球協会として創立。100年という長い歴史を刻んだ。

夢のまた夢だったワールドカップ(W杯)に6大会連続出場するまでになった。マンチェスター・ユナイテッドやアーセナル、ACミランでプレーする日本選手も出てきた。

そんな日本サッカーについて、1960年(昭35)東京生まれ、10歳でサッカーを始め、84年に日刊スポーツに入社。日本リーグ時代から現場で取材し、日本サッカーの歴史の“半分”、50年を体験してきた荻島弘一記者が、記念日にコラムで、100周年を祝福。

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「Jリーグ発足前、日本にサッカーはなかった」とも言われるが、とんでもない。大日本蹴球協会誕生から100年。すでに、その50年前にはサッカーが日本に伝えられ、各地の師範学校などで行われていた。その長い歴史から見れば、Jリーグの28年の歴史は、まだまだ短いといえる。

自身も、サッカーを始めたのは50年以上前だった。東京の区立小学校にサッカー部はなかったが、サッカースクールで毎週ボールを蹴っていた。少しの間通っていた広島の小学校では、男子児童の3分の1がサッカー部員だった。「やるサッカー」は盛んだった。

「閑古鳥が鳴いていた」とされる日本リーグも、68年メキシコ五輪で銅メダルを獲得した後は、観客も入っていた。釜本のヤンマー(現C大坂)対杉山の三菱(現浦和)の黄金カードでは、旧国立競技場に3万近い観客が入っていた。時間があれば通って、日本リーグの試合を見ていた。

大リーグやNBAなど海外のスポーツに触れることさえできなかった昭和の時代にも「ダイヤモンドサッカー」が欧州の試合を伝えてくれた。ペレやベッケンバウアーら大物も来日。75年から首都圏開催となった高校選手権は旧国立が超満員になった。「見るサッカー」も盛んではあった。

もっとも、当時は「夢」がなかった。後にJFAの長沼健会長から聞いたのは「とにかく金がなくて、自転車操業。毎年3月になると金策に走り回って、いつJFAがつぶれるかと思っていたよ」。やっても、見ても、その先はなかった。

サッカーをやっていても「サッカー選手」を目標にする子はいなかったし、実際に高校選手権のスター選手が競輪界や芸能界へと転身した。五輪は遠く、W杯も夢のまた夢。「死ぬまでにW杯で日本代表の試合を見たいな」と話していたのは40年ほど前のことだ。

Jリーグ誕生で、変わった。五輪やW杯出場が当たり前になり(アジア枠増も大きいが)、子どもたちの目標は「サッカー選手」になった。日本のサッカー界に「夢」ができた。Jリーグ最大の功績は、支えたJFAの功績でもある。

大日本蹴球協会は2番目に誕生した国内競技団体だった(初は日本漕艇協会~現日本ボート協会)。65年に初めて国内リーグを発足させ、93年には初めてプロリーグができた。常に日本スポーツの先頭を走り、スポーツに「夢」を運んだ。サッカーは続き、夢も広がる。まだ100年。JFAは、もっと「夢」を見させてくれる組織であってほしいと思う。【荻島弘一】