渋谷の焼き肉を腹いっぱい食べ尽くすのは、まだ先になりそうだ。

 ボクシングの「前」WBA世界ライト級王者ホルヘ・リナレス(32=帝拳)。縁あって17歳で南米ベネズエラから単身来日。名門ジムの寮の和式便所に驚き、すぐに洋式セットを買いに走った雪降る東京の思い出から15年ほど。雪解けしたニューヨークは5月12日(日本時間13日)、「聖地」マディソン・スクエア・ガーデンにて日本史上最大の戦いへ。

ロマチェンコ(左)にパンチを打ち込むリナレス(AP)
ロマチェンコ(左)にパンチを打ち込むリナレス(AP)

 迎えたのはワシル・ロマチェンコ(30=ウクライナ)。現代ボクシングの最高傑作、階級を通じて最も強いボクサーランク1位、五輪2連覇、史上最速12戦目での3階級制覇へ。ある種現実離れした状況羅列が賭け率を大きく動かして、大手ブックメーカーの下馬評は王者の圧倒的不利に傾いていた。それは4度目の防衛戦という雰囲気より、どこか猛将に包囲された城主の扱いをされかねないムード。

 ただ、やはりそこは現実だった。「日本の焼き肉はやばいよ」と熱弁の男は、第2の故郷を血肉に、確かに現実に引き戻してみせた。6回、英雄伝にまい進するように一層攻勢に出たロマチェンコに一瞬のすき。横より直線移動が多くなった強気に不用意は生まれた。何げなく姿勢を正面に据えてしまった慢心を見逃さず、リナレス、顎を貫く。尻もち奪取。最短距離、最少動作で突いた軌道は、挑戦者に大枚をかけた男たちもKO寸前まで追い込んだ。

 結末は10回TKO負け。ダウン後の7、8回に停滞、警戒はあったが、その潜在能力を出し惜しみしないように一段と高速となった動き、パワーで迫り来るロマチェンコに、一瞬の警戒空白地帯を射抜かれ、リプレーで確認しなければ目視できないほどの左ボディーブローを腹に受けて、ひざを折った。ボクサーが最も効くパンチは予期しない角度、軌道。上に4発を集められた直後に、電光石火の腹打ちを決められ、「あの一発は驚いた」とすがすがしく認め、敗者となった。

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 言い訳しないグッドルーザーには、前向きな後日談があって良い。

 試合は今年最高の視聴件数を獲得した。米ニールセン・メディア・リサーチが16日に発表した数字では、ESPN局放送のピーク時174万9000件、平均143万9000件を全米でマーク。18年のケーブルテレビのボクシング中継で最高の数字となった。展開的には倒し倒されになりながらも、力強さという寄り至高のテクニック、スピードを堪能できた稀なメガファイトに、リナレスの記憶も多く共有されたはず。負けても評価を上げる。本場米国で良き敗者に与えられる正統な報酬は、リナレスにも届く。ベルトはなくなったが、なくして手にしたたまものは非常に価値があった。

 これで1つの夢にも近づいただろう。かねて語った。

 「ベネズエラには一杯良いボクサーがいるよ。でも、国が大変だからちゃんとした練習もできない子もいる。だから、なんとかしてあげたい」

 ハイパーインフレが続き、国情は困難極める。それはスポーツ界にも波を寄せる。「あと2年くらいでプロモーターもやりたい」。そして救出してあげたい。さらに「今年の冬には米国に帝拳ジムを作りたいね」とも望みが広げていた。本場で評価をさらに上げ、夢への道は太くなった。

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 「やばい」焼き肉には流儀があるらしい。「最初に塩タンを食べるよ。そのお店がどうかわかるね。間違いない。なんでだろう」。ただ、「体重のコントロールが難しいね」。苦笑に日本愛を織り交ぜる現役生活は、まだ続きそうだ。【阿部健吾】