飛び込み界の「超新星」玉井陸斗(14=JSS宝塚)が3日、ついに五輪切符をかけて台の上に立つ。五輪世界最終予選を兼ねたW杯東京大会で、高飛び込みに出場する。衝撃デビューから約2年。紆余(うよ)曲折をへて、東京五輪へのスタート位置についた。

玉井は19年4月、シニアデビューの日本室内選手権で12歳7カ月の史上最年少優勝。しかも2位以下に60点以上の大差をつけるぶっちぎりだった。前宙返り4回転半抱え型(109C)など高難度の技を6本そろえて、17年世界選手権7位相当の474・25点。衝撃デビューの中学1年生は、東京五輪候補に浮上した。

しかしそこからが長かった。同大会は19年世界選手権の代表選考を兼ねていた。ただ玉井は同選手権開催時に12歳で、国際水連が設けた年齢制限ルールにひっかかった。8位入賞で五輪代表に内定する同選手権は出場できず。また優勝=五輪内定となる同9月のアジア杯も、同じく年齢制限ルールで出場できなかった。

ただ20年夏の東京五輪は出場可能だった。出場すれば、13歳10カ月。夏季五輪日本男子最年少出場記録の14歳10カ月(1932年ロサンゼルス五輪の競泳北村久寿雄)を更新する可能性があった。

五輪切符がかかるのは、20年4月に予定された五輪世界最終予選兼W杯東京大会だった。同2月の日本代表選考会では、しっかりと同最終予選の出場権を獲得。東京五輪に王手をかけて、2カ月後を待っていた。

東京五輪まであと1歩。そのタイミングで、コロナ禍が襲った。五輪は1年延期となって、北村の五輪最年少記録の更新も幻となった。

現在、中学3年生になった玉井は、身長155センチ、体重51キロになった。デビューVを飾った12歳7カ月の時から身長12センチ、体重15キロアップした。失意の間も、基礎練習に励んで、成長していく体を演技の中でコントロールする術を磨いてきた。「まずモチベーションを落とさないように。五輪に向けて考えて。今までできない基礎練習もやって五輪でいい演技ができればと思っていた」。

だが今春、再びコロナ禍による不確定要素に襲われた。20年4月から1年後に仕切り直しとなった五輪世界最終予選を、国際水連が大会2週間前にいきなり中止する意向を発表。その理由は、日本側の感染症対策を不服としたものだった。

大会主催者は、あくまで国際水連で、決定の権限は日本側にはない。中止になれば、19年世界選手権のランキングを基に、五輪出場を決める選択肢も浮上していた。関係者は「このルールはIF(国際競技団体)がきめること。IFが決めてしまうと、もうこちらでは決められない。陸斗はつらいなあ」と口にした。

19年世界選手権の結果が反映されると、国際水連の年齢制限ルールで出られなかった玉井に可能性はなくなる。玉井は、競技の実力以外のところで、挑戦もできないまま、東京の道を断たれる危機だった。事態はその後、日本側による必死の働きかけもあって、五輪世界最終予選の2週間延期で何とか決着した。

14歳にとって、東京五輪はつかみどころのない蜃気楼(しんきろう)のようなものだっただろうが、やっとチャンスが巡ってきた。

男子高飛び込みは、飛び込みの花形種目だ。予選は3日午後0時半スタートで49人がエントリー。競技時間は約3時間超の長丁場になる。そのうち上位18人が準決勝に進出。玉井は予選を突破して、同午後6時45分からの準決勝で演技を終えて、リザルトが残った時点で五輪代表に内定する。

玉井の自己ベストは、528・80点で16年リオデジャネイロ五輪銅メダル、19年世界選手権4位相当だ。国内ジャッジと国際ジャッジで採点の違いは存在するが、その実力に疑いの余地はない。アクシデントがなければ、五輪切符を確実視されている。【益田一弘】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)

◆益田一弘(ますだ・かずひろ)広島市出身、00年入社の45歳。五輪は14年ソチでフィギュアスケート、16年リオで陸上、18年平昌でカーリングなどを取材。16年11月から五輪担当キャップとして主に水泳取材。