刻まれた伝説の金メダル-。29年前、情熱の国スペイン・バルセロナで戦い抜いた古賀稔彦さんをめぐる逸話には、日本五輪史でもひときわのドラマが詰まる。後輩の吉田秀彦さん(51)との現地入り後の稽古で左膝を負傷。歩けない状態から強行出場し、奇跡の栄冠をつかんだ。苦心の中で先に戦い自身も金メダルを手にした吉田さんは、「2人で勝ち取ったバルセロナ五輪の金メダルは一生の宝」と思いを込めた。

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死に物狂いの日々を駆け抜けた2人には、いまも気高い絆がある。吉田さんは、その思いを、24日に発表したコメントに記した。

「古賀先輩の訃報を聞き、今はただ驚きとまだ信じられない気持ちでいっぱいです。最後まで奇跡を信じていましたが、かないませんでした。今の私があるのは、古賀先輩のおかげと言っても過言ではありません」

中3で柔道私塾の「講道学舎」に入門し、2学年上の古賀さんから付き人に指名された。寝食を共にし、鍛えてもらった。国際舞台へ歩み、2人で共に出たひのき舞台が92年バルセロナ五輪だった。

現地入り後、古賀さんの71キロ級の試合日まで10日となった7月20日の稽古だった。吉田さんの希望で組まれた異例の代表同士の乱取りで、滑った古賀さんの左膝に、合計150キロが乗った。激痛にもん絶する姿と絶句する吉田さん。靱帯(じんたい)損傷、全治1カ月の重傷だった。歩けない。悲願の金へ、暗雲どころではない絶望だった。

その後も2人は同部屋で過ごした。患部を冷やす氷の取り換えをし続け、気分転換に古賀さんを自転車に乗せてビーチにも行った。「大丈夫だから」。絶対に弱気を見せない先輩。自身の78キロ級の試合は1日前にあった。全試合一本勝ちで先に金メダルを手にしたが、「試合前日の先輩と顔を合わせるのが嫌で」リビングで寝た。

翌7月31日、古賀さんは痛み止めの注射を6本打ち、ケガ以来の柔道着に袖を通して畳に上がった。冷やしすぎた足は凍傷手前、その中で決勝へ。ハイトシュ(ハンガリー)との一進一退の決勝で勝利を示す赤旗が3本上がった。「あいつ(吉田)は責任を感じていた。早くけがが治るようにいつも祈っていたという後輩の気持ちを聞いて、今回は本当にいい優勝をしたな」。背負い、闘い抜いた。

後日談がある。吉田さんも、実は重傷を負っていた。帰国後の検査で、5月に痛めた腓骨(ひこつ)が骨折していたことが判明した。そして、古賀さんは胃に穴が開いていた。強烈なストレスで胃潰瘍になっていた。そのことは2人とも一切、口にしなかった。

あれから29年、吉田さんは追悼の言葉の続きを、こう結んだ。

「古賀先輩が優勝した瞬間、私が金メダルを取った時以上の喜びを感じました。古賀先輩が見せたあの精神力は、今も私の支えとなっています。2人で勝ち取ったバルセロナ五輪の金メダルは一生の宝です。現役引退後は、後進の指導や子供たちへの柔道普及活動など柔道界の発展に尽力された古賀先輩に、私から人生の金メダルを送らせて頂きます。ご冥福を心よりお祈りいたします 2021年3月24日 吉田秀彦」

◆古賀稔彦(こが・としひこ) 1967年(昭42)11月21日、福岡県久留米市生まれ。小1年で柔道を始め、佐賀・北茂安小卒業後に上京して講道学舎に入門。弦巻中3年時に全国中学大会優勝。世田谷学園高でインターハイ個人戦2連覇。切れ味鋭い背負い投げを武器に、世界選手権は89(71キロ級)、91(同)、95年(78キロ級)と3度優勝。五輪は3度出場して92年バルセロナ大会で71キロ級金、96年アトランタ大会は78キロ級銀。00年の引退後は全日本女子強化コーチや環太平洋大(岡山市)の総監督などを歴任。03年に神奈川県川崎市に町道場「古賀塾」を開塾。長男颯人(はやと)、次男玄暉(げんき)、長女ひよりも柔道家。