女子バレーボールで、かつての名セッター中田久美監督(55)が率いる日本代表が掲げてきたのは「伝説に残るチーム」だった。1964年(昭39)東京五輪で「東洋の魔女」と呼ばれ、金メダルを獲得した全日本女子はその先駆者だ。昭和から平成、令和へ-。時代を超え、脈々と受け継がれてきた精神を見せる舞台。それが2021年、コロナ禍で開幕した伝説の東京五輪になる。

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「ソ連に負けるとは考えたことがありませんでした。でも、勝てるかは分からん。そんな相手でした。『もし』なんて考えない。『もし負けるかも…』と考えたら、そっちに引っ張られる。だから、考えません」

秋も深まりつつあった1964年10月23日。東京・駒沢屋内球技場を包んだ歓声は、歴史的瞬間への緊迫感を際立たせた。東京五輪女子バレーボール最終戦。「東洋の魔女」と呼ばれた全日本のエース谷田(結婚後は井戸川)絹子は、のちに当時の心境を明かした。

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テレビ視聴率は66・8%。午後9時1分、第3セットは大詰めを迎えた。日本は最後の力を振り絞り、粘るソ連を追い詰めた。14-13。五輪を機にカラーテレビが急速に普及していたとはいえ、多くの家庭はまだ白黒のテレビだった。開会式のラジオ中継も担ったNHKの鈴木文弥アナウンサーが画面越しに伝えた。

「ニッポン、ついに6回目のマッチポイント。金メダルポイントであります」

27歳の宮本(結婚後は寺山)恵美子が放ったサーブ。ソ連のレシーブは精度を欠き、ボールは日本のコートへ飛んできた。ネット際で両チームが競り合った後、主審の長い笛が響いた。

「オーバーネット。

ニッポン、勝った。ニッポン、勝った。

ニッポン勝ちました。

ニッポン、金メダルを獲得しました。場内騒然」

その10年前、1954年に大阪・日紡貝塚は貝塚市で始動した。33歳で初代監督となったのが、大松博文だった。1961年には日紡貝塚の単独チームで欧州遠征に向かい、22戦全勝。ソ連メディアに「あれは東洋の魔法使いだ」と報じられ、のちに「東洋の魔女」と呼ばれるきっかけになった。東京五輪の全日本は、12人中10人の選手と大松が、日紡貝塚所属だった。

「これからは秘密練習だ。誰も体育館に入れるな」

五輪3年前の61年から「回転レシーブ」の練習が始まった。第2次世界大戦後の1947年に国際バレーボール連盟(FIVB)が誕生。欧米で普及していた6人制を採用したが、日本国内は9人制が主流だった。

9人制であればレシーブで尻もちをついても、残り8人でカバーできた。だが6人制の国際試合を戦い、体格で劣る日本が勝つには、何か武器が必要だった。

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大松は選手に厳しい練習を課した。だが、谷田はその意図を感じ取っていた。

「大松先生の狙いは私たちも分かっていました。しんどいだけなら、やめています。明らかに取れないボールが、次を予測して半歩先に踏み出していると、触れるようになる。拾える範囲が広がっていくんです」

ご褒美で映画観賞をねだり、映画館で眠ったこともあった。大松は選手を、選手は大松を深く信頼した。大松の機嫌が良ければ、谷田はレシーブ練習をしながら、大松の尻をたたいた。

「ごめん、先生のお尻やった!」

1962年6月、2年後に控えた東京五輪で女子バレーボールの採用が正式に決まった。4カ月後に日本は世界選手権優勝。五輪金メダルへの期待が膨らんだが、帰国後の祝勝会で大松は突然、辞意を表明した。

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その決断の裏には「結婚適齢期の選手を解放してあげたい」という親心もあった。主力の1人で当時22歳だった半田(結婚後は中島)百合子には婚約者がおり、故郷の栃木へと帰った。主将の河西(結婚後は中村)昌枝も「オリンピックなんて、私には関係のないこと」と腹をくくっていた。

だが、世間は五輪金メダルを期待していた。一般市民から辞意撤回を求める5000通以上の手紙が届き、大松は協会幹部に連日説得された。1度は大松と共に代表から退く決意をした選手たちも、年末年始の帰省で周囲の熱意を感じた。

年が明けた1月4日、大松家に全員が集まった。

「先生、みんなで話し合った結果、やります。だから、お願いします」

選手たちは、東京五輪を目指す覚悟を伝えた。大松もうなずいた。強固な信頼関係がなければ、1年後に歴史的瞬間は訪れなかった。

あの金メダルから、半世紀以上が過ぎた。

2020年12月4日。後輩の飛躍を願っていた谷田は脳出血のため、81歳で息を引き取った。

この夏、日本代表は東京五輪を戦っている。6月の代表選手発表時にはチームを率いる55歳の中田久美が、涙を流しながら言った。

「伝説に残るチームを作り上げるため、覚悟を決めて戦いに挑む」

今回の東京五輪に向けた5年間、代表で50人の選手が戦った。その数は12人に絞られ、東京の地で2大会ぶりのメダルを追いかけている。

目の前に高い壁が見えた時、信じるものは何か-。

大松も河西も、そして谷田も、天国へと旅立った。それでも「東洋の魔女」の精神は生きている。(敬称略)【松本航】

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