福岡を拠点にするコカ・コーラは、20-21年シーズンで飛躍へのきっかけをつかんでいた。

日本最高峰トップリーグ(TL)の2部相当となるトップチャレンジリーグを3位で通過し、日本一を争うTLプレーオフトーナメントに進出。21年4月17日、三菱重工相模原との1回戦は後半35分まで17-14とリードしていた。TLの相手を土俵際まで追い詰めたが、結果は17-24。シーズンは幕を下ろし、2年契約1年目を終えた黒川ラフィも全体ミーティングに参加した。8月の再始動を確認し、22年1月開幕の新リーグに備えるオフに入った。

それから3日ほど後のことだった。

翌週に集合日を設けるという、チーム連絡が入った。シーズン終了から11日後の4月28日、朝からクラブハウスに全員が集まった。

その場で会社の担当者から突然、21年末でチーム活動を終了すると伝えられた。それは廃部を意味した。

経営状況や今後のキャリアサポート体制などが説明されていった。次々と耳に入ってくる言葉を、黒川はすぐに処理できなかった。

「唐突すぎて…。変に冷静で『こういうこともあるんだな…』と思いました」

先輩たちが選手側の意見をぶつけたが、決定が覆るような段階ではなかった。

「僕はプロ選手だったので『いつか(首を)切られるかも』という危機感を常に持っていました。でも、チームには社員選手、僕より年齢が下の後輩もいる。他の選手に比べれば、まだ冷静だったかもしれません。ただ、すぐには気持ちを整理できませんでした」

肘の故障でプロ野球選手の夢を諦め、次はラグビー選手として高みを目指してきた。その途中でまたしても視界が真っ暗になった。

運命が変わったのは6月下旬だった。ロッカールームが近かったロックの筬島(おさじま)直人(30)が、アメリカンフットボール社会人Xリーグ1部(X1)エリアのイコールワン福岡SUNSから誘いを受けていた。創部は17年2月。関東、関西に強豪が集まる世界で、独自路線の強化を図っているチームだった。筬島に「ラフィも練習行かん?」と誘われ「先輩となら」と一緒に顔を出した。

7月4日、人生で初めてアメリカンフットボールの練習を体験した。防具をつけて、走りながら思った。

「『アメフトを理解すれば、もっとできるんじゃないか』と思いました。1回の練習で『アメフトをやってみたい』と考えました。本音を言うと『ラグビーとアメフト、どっちもやれたら最高だな』と思って…」

最初に頭に浮かんだのは、所属するコカ・コーラの向井監督だった。廃部決定後の面談では、他チームに移籍したい思いを伝えていた。2年前、父の死を共に悲しんでくれた師は、豊富な人脈を使い、各方面へ働きかけてくれていた。7人制に専念して日本代表を目指す道も準備してくれた。

初めはラグビーとアメフトの両立を模索した。それが厳しいと分かり、決断を迫られた。イコールワン福岡で選手を兼任している吉野至代表(33)は追加登録1枠を残し、待っていてくれた。登録締め切り前日となった7月30日、アメフトに転向する決意を伝えた。

「最後は『自分が想像できない方』を選びました。唯一ラグビーに心残りがあるとすれば、向井さんのために、もう少し活躍したかった。その向井さんが『ラフィの人生だから、それがいいと思ったんなら、それがいい』と言ってくださいました。本当にお父さんのような方に背中を押してもらい、最後は決めました」

8月5日の入団発表から、1カ月ほどが過ぎた。9月11日、X1エリア第2節アズワン戦。自陣深くから11ヤードのランで公式戦デビューを飾った。新たな競技人生が始まった瞬間だった。

「野球も、ラグビーも、やめる時に後悔がない練習をしてきました。僕の人生、いつも周りの方が後押しをしてくれ、本当に感謝しきれません。アメフトではプロ選手として、面白く、見ている人がわかりやすい活躍をしたい。やるからには海外を目指したいです」

ポジションはボールを前へと運ぶランニングバック(RB)。夢を追うのに終わりはない。(終わり)【松本航】

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