約2時間の商談で、話題は思わぬ方向へと進んでいった。気温が30度を超え、夏の到来を感じさせた6月21日。中学1年からラグビー一筋、30歳となっていた筬島(おさじま)直人は取引相手に向き合っていた。

手渡されたのは、アメリカンフットボールのユニホームだった。仕事の話から早々に脱線し、着るように促された。「アメフトに挑戦してみませんか?」。熱い口調でそう説得された。

約2カ月前、筬島の人生は急展開を迎えていた。

4月28日、福岡市内にあるラグビーチーム、コカ・コーラのクラブハウス。14年の入団以降、毎日のように通い続けた場所に選手全員が集められた。11日前に三菱重工相模原と日本最高峰トップリーグのプレーオフトーナメント1回戦を戦い、自身もメンバー入りした。敗戦でシーズンが終わり、8月の再始動に向けて長期のオフに入っていた。

「最後」は突然訪れた。

「会社の担当の方から『活動を終了します』と話がありました。全く予想していませんでした。急に集められたので『(規模縮小など)いい話ではないのかも』と考えていましたが…」

何か違う道はないのか-。すぐには頭の整理が追いつかなかった。2日後の30日には、社外にも21年末での廃部が正式発表された。妻をはじめ、これまで支えてくれた人に感謝を伝え、ラグビーに別れを告げた。

「悔しさ、悲しさがあふれました。でも、僕はラグビーの最終キャリアはコカ・コーラで終えると決めていました。社員選手だったので、これまでラグビーと両立して働く環境を会社が整えてくれていた。半ば無理やり『業務に専念しよう』と気持ちを整えました」

厳しい環境は日常だった。熊本市で生まれ、力自慢のFWとして地元の熊本西高で主将を務めた。進学先は全国大学選手権初優勝を飾り、絶対王者への道を歩み始めていた帝京大。同期に19年W杯日本代表CTB中村亮土(30)がいた。1学年下はSH流大(29=ともに東京サントリー)、2学年下はフッカー坂手淳史(28)、3学年下にSO松田力也(27=ともに埼玉パナソニック)やNO8姫野和樹(27=トヨタ)。のちにW杯日本大会を戦う逸材が名を連ねた。

Aチーム(1軍)だけでなく、全カテゴリーで毎日のようにメンバーが入れ替わった。FW第2列のロックとして、筬島は貪欲に上を目指した。1軍へ定着はかなわなかったが、その環境で学ぶことは多かった。

「毎年とんでもないヤツが入ってくる。単純に『負けたくない』と思っていました。僕たちの代あたりから上級生が雑務をするようになった。岩出(雅之)監督は『帝京で成功するのがゴールじゃない』と常におっしゃっていました。人として成長する行動がプレーにつながると学びました」

187センチ、102キロ。泥臭く体を張り続け、コカ・コーラで主力になった。仕事とラグビーに打ち込んできた日々。廃部により、そこからラグビーが消えた。

あの日、商談で向き合っていたのは、1人のフットボーラーだった。アメリカンフットボール社会人Xリーグ1部(X1)エリアのイコールワン福岡SUNS。そこで選手を兼任する吉野至代表(33)が相手だった。かねてイコールワン福岡とコカ・コーラは、自販機の営業活動で連携していた。コカ・コーラ側の担当者が筬島に変更となり、前任者と共に、引き継ぎの商談で吉野代表に出会った。

3日後、代表からは練習の日程が送られてきた。

「入部するとは、これっぽっちも思っていません。『いい経験になるかな』と思って、参加したんです」

約1週間後、コカ・コーラで後輩だった黒川ラフィ(26)を誘って練習へ向かった。用意された防具、ヘルメットを着用し、目の前の相手にぶつかってみた。

「コンタクトをして、熱くなりました。むちゃくちゃ面白い。『もう1回、熱くなりたい』と、1回沈んだ気持ちが高ぶりました」

自宅に戻ると、知らぬ間にアメフトの魅力を語っていた。妻は「後悔してほしくないから、頑張ってきなよ」と背中を押してくれた。練習参加から4日後に転向を決意。8月28日、アサヒ飲料とのシーズン開幕戦では、防御の最前線で体を張るDLでデビューした。

「試合の緊張感が懐かしかったです。廃部になって、やりたいと思ってもできないつらさを知りました。人生1回なので、後悔したくない。実力をつけて、たくさん試合に出たいです」

立場は今もコカ・コーラ社員。出社前の午前6時から励むトレーニングが、楽しくて仕方がない。30歳は挑戦を選んだ。【松本航】

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