日本レスリング界をけん引してきた笹原正三(ささはら・しょうぞう)さんが5日午前0時11分、死去した。93歳だった。日本レスリング協会が6日、発表した。1956年のメルボルン五輪フリースタイル・フェザー級で金メダルを獲得、64年東京五輪ではコーチとして金メダル5個の好成績に貢献した。その後も日本レスリング協会会長など要職を歴任、日本レスリング界とスポーツ界の発展に貢献してきた。

戦後の日本レスリング界に君臨した笹原さんが亡くなった。笹原さんは、自らの代名詞となった「股さき(ササハラズ・レッグシザース)」を武器に欧米勢を圧倒。54年世界選手権優勝など3年間無敗のまま初めての五輪に臨み、圧倒的な力で日本レスリングに2個目の金メダルをもたらした。

現役引退後は一時レスリングから離れたが、64年東京五輪では日本チームのコーチに就任。レスリング協会会長でもあった故八田一郎監督をサポートし、豊富な知識と冷静な分析で金メダル5個を量産するチームの支えとなった。「八田イズム」と言われた八田氏の隣にも、常に敏腕コーチ笹原さんの姿があった。

その後も、レスリング界やスポーツ界の発展に尽力した。日本レスリング協会の会長を10年以上務めたほか、国際レスリング連盟副会長、日本オリンピック委員会(JOC)副会長、ユニバーシアードや五輪の選手団長、副団長を歴任。98年長野冬季五輪では選手村村長も務めた。選手、役員など立場を変えて参加した五輪は計12回。五輪に生きてきた人生でもあった。

生涯スポーツの振興にも力を尽くした。80年には誰でもできるようにテニスを改良したバウンドテニスを考案。日本協会を設立して初代理事長に就任し、毎年日本選手権が行われるスポーツに成長させた。

研究熱心で努力家。山形商(旧制中学)で英語をマスターし、貿易関係の仕事についてからスポーツ用品や栄養食品を扱った。健康への興味があったから、日本人の体力増強にも熱心に取り組んだ。それが、スポーツ界を発展させた。

56年大会の金メダルは、母校・山形商に寄贈された。同校から「レプリカを飾りたい」と提案された時「ならば現物を」となったようだ。「金メダルを見たことのない若者に、本物を見せたい」という思いがあった。レスリング界、スポーツ界、そして五輪のために生きてきた。その遺志は、金メダルを通して故郷・山形の若者を見守っていく。

◆笹原正三(ささはら・しょうぞう)1929年(昭4)生まれ。山形市出身。山形商業中学(旧制)では剣道部に所属、町道場で柔道にも親しんだ。中大入学と同時にレスリングを始め、4年で全日本選手権優勝。卒業後も大学に職員として残り、56年メルボルン五輪フリースタイル・フェザー級で金メダルを獲得した。引退後は貿易業のかたわら後進を指導。日本レスリング協会会長など要職も歴任した。