昨年まで巨人の投手コーチを務めた小谷正勝氏(74)のコラム「小谷の指導論~放浪編」を毎月末~月頭の3回連載(予定)で送ります。コーチ一筋40年、数多くの名投手を育て上げた名伯楽。日刊スポーツでは12年以来となる長期連載で、余すところなく哲学を語ります。

14年1月、新人合同自主トレでノックを受けるロッテ二木康太
14年1月、新人合同自主トレでノックを受けるロッテ二木康太

ロッテの2軍投手コーチを務めていた14年に、二木康太と出会う縁があった。

鹿児島情報高校から、前年のドラフト6位で指名された。ファンの方は、入団時の体つきを思い出せるのではないか。上背はあったが細身で、目立つ方ではなかった。感性に触れたのだろう。ある日、捕手の里崎智也が「小谷さん、二木は何年後かにはエースになれますね」とつぶやいた。

ボールを投げる一連の動作の中で「これは」と思わせる変則的な間合いを持っていた。普通の投手は「1、2~の3」のリズムで投げるが、二木は「1、2~の3、4」で投げる。体重の乗っていないフリーフットの左足が、地面につくまでに一呼吸ある。打者はタイミングが取りづらいだろうなと感じた。

それはプロの世界で勝てる武器となりうる個性だった。ただ当時は、体に力がなかった。ブルペン投球の時、捕手からの返球を受けて投球動作に入るまでのインターバルが17~18秒もあった。普通は7~8秒。変則モーションで時間がかかる上、投げ込む体力もなかった。1年目はファームでも1試合の登板だけ。遠投とゴロ捕を多めにし、本人に気付かれない程度の体作りに専念させた。

体力がつき始めた2年目の夏過ぎから、1球あたり7~8秒のインターバルにトライした。7、8球を連続で投げて、どのくらい時間がかかるか計測。「これなら大丈夫」と判断し、指示を出していった。ファームで26試合に登板し、シーズン終盤に1軍デビュー。3年目には開幕ローテーションに入り7勝を挙げ、先発の柱に成長した。

がんを患い入院生活を送る中で、なぜふいに二木が頭の中を巡ったのか。よくよく自分に問うてみると、彼に対する感謝の気持ちが根底にはあった。

1年目からさまざまなことにトライさせていたら、体に大きな痛みが出ていただろう。長所の気付き。長所を最大限に伸ばすことを念頭に、体にあった育成計画を立てる。選手本人へのアプローチと理解の共有。1軍での活躍。投手コーチとしての存在意義と喜びを再確認させてくれた。

19年2月、巨人春季キャンプで上原浩治(右)に声をかける
19年2月、巨人春季キャンプで上原浩治(右)に声をかける

出会った原石が、どうしたら世に出るかをとことん考えること。コーチ業をこう定義し、40年を過ごしてきた。染みついた職業観、もう人生観と置き換えてもいいのだが、とにかくそうやって生きてきた。いまさら変えることはできまい。

すると「放浪」という言葉が浮かんできた。8年前は「小谷の指導論」というタイトルをいただき、主に技術論を記してきた。そこに「放浪」を加えると、どうだろう。

本音は1月の新人合同自主トレから視察して、原石を探す旅に出たかった。経験に照らしながらつれづれに、また投球以外の思いも自由に書いていきたかった。回復途上で今はかなわないが、元気を取り戻す糧として、徐々に放浪を始めようと思っている。

タイトルに「放浪」を入れたい理由は、もう1つあった。半世紀前、現役時代に読んだ1冊の句集が、頭のど真ん中にあって離れないままでいた。この機会にじっくり読み直して確信に変わった。その俳人の生き方は、私のあこがれそのものだった。(つづく=次回は2月下旬の予定)

◆小谷正勝(こたに・ただかつ)1945年(昭20)兵庫・明石市生まれ。国学院大から67年ドラフト1位で大洋入団。通算10年で285試合に登板し24勝27敗6セーブ、防御率3・07。79年からコーチ業に専念。11年まで在京セ・リーグ3球団で投手コーチを務め、13年からロッテで指導。17年から昨季まで、再び巨人で投手コーチを務めた。