優勝校のユニホームは、見る者の目を射るような白さだった。1995年(平7)4月5日、第67回選抜高校野球大会は観音寺中央(香川)の初出場初優勝で幕を閉じた。銚子商(千葉)との決勝で、エース久保尚志(当時3年)が7安打完封。4番の室岡尚人(同)は3安打を放って大会通算13安打とし、1大会の個人通算最多安打記録を塗り替えた。春夏通じて初めて甲子園に臨んだ観音寺中央が、大会を制した。

95年4月、第67回選抜高校野球決勝で優勝し、喜ぶ観音寺中央ナイン
95年4月、第67回選抜高校野球決勝で優勝し、喜ぶ観音寺中央ナイン

初陣校の大旗取り、個人記録の更新など劇的な要素はあったが、幕切れは静かだった。両腕を高々と掲げたエースが待つマウンドにナインが集まり、笑顔で体をぶつけ合った。雄たけびもない。NO・1ポーズもない。「自分としては、あれで十分でした」。のちに久保は悔いない笑顔で、優勝の瞬間をそう振り返った。「復興・勇気・希望」。甲子園の右中間外野フェンスに浮かぶ6文字が、特別な大会を象徴していた。

開幕のわずか2カ月前。1月17日の早朝、震度7の大地震が阪神・淡路地区を襲った。死傷者は6000人を超え、甲子園も傷ついた。液状化現象で泥水が噴き出したグラウンド、ひび割れたアルプススタンドを目の当たりにし、センバツ開催など遠い世界のことに思えた。だが、主催の日本高野連と毎日新聞社は1つ1つ課題をつぶし、近隣住民の理解を得る努力を続けて開催にこぎつけた。

のちに毎日新聞社の運営責任者だった鳥居宏司事業本部長(95年当時)に聞いた。鳥居氏は、教育現場にいる知人と電話でかわした会話を教えてくれた。「生徒には自己表現として、発表の場を与えることが絶対に必要。甲子園も大きな発表の場。それを奪ってはいけない。大会を続けることは子どもたちへの資産。それを決して忘れないでほしい」。その言葉にどれほど救われたか、と鳥居氏は話した。球児の春へ、無我夢中でひた走った道が未来に続いていたことを知った。

野球が被災者の勇気になるのか? 失われた人の命が、街がよみがえるのか? 主催者は重い課題を背負い続けた。史上初の中止となった今春は、どれほど人事をつくしてもウイルスから球児、運営の関係者を守り切れるか分からなかった。25年前は、球児の躍動を見て、球音を聞いて、被災者が懐かしい日常を思い出してくれるのではないか。その可能性が支えだった。

大会開催に尽力したすべての人々の思いに形を与えたのが、決勝だった。初戦で優勝筆頭候補のPL学園(大阪)を破り、4試合を勝ち抜いて古豪復活を証明した銚子商。その強敵を決戦で封じたのは、左胸に「観音寺」の校章を染め抜いた純白のユニホーム。日ごろの練習の成果を出す-。その一心で初陣校は春の覇者となった。終わった…と記者席でつぶやいた日。忘れられない春になった。【堀まどか】