1945年(昭20)3月29日早朝、嶋が乗った輸送船団は、シンガポールからベトナムの海岸線に沿って日本を目指した。だが、乗組員は早春の日の光を2度と見ることはなかった。

 午前7時10分。嶋を乗せた第84号海防艦は米軍の魚雷攻撃を受け、沈没。ほどなく船団は、全滅した。

 評伝「嶋清一 戦火に散った伝説の左腕」に、嶋の最期についての長い記述はない。著者の山本暢俊は嶋の生涯を綿密に書き記したが、戦死については12行の記述にとどめる。

 山本 あの艇に乗っていたことや通信兵であったことも確認できていますけど、あれ以上書くといろいろなことが推測になってしまうので。

 ただ、嶋の死を伝えたあとに続く「嶋はまだ二十四歳だった」の1文にこそ、著者の万感がこもる。他の追随を許さない快投を甲子園に残し、結婚したばかりの新妻を故郷・和歌山に残し、海に消えた嶋は、わずか24歳だったのだ。

 43年11月20日に海草中野球部OBの自宅で撮影された「出陣学徒壮行会」の写真が今も残っている。海草中、明大を通じての嶋の親友、古角俊郎が持っていた写真を、山本は自身が所属する桐蔭(和歌山)硬式野球部OB会の広報誌で見た。目にした瞬間の衝撃こそ山本を嶋の評伝執筆に駆り立てた原動力だった。

 山本 (前列に座る6人は)みなチームメートで、その方々を野球部関係者が送る。戦争で亡くなった方もいるし(前列左から4人目で嶋の後輩の)真田重蔵さんのように生き残られて戦後のプロ野球を引っ張っていかれた方もいた。明暗が分かれたわけですが、彼らがそのときどう思ったかというのがわかれば、どういうふうに青春を過ごしたのか、何と向き合ったのか分かってくるんじゃないかなと思った。それがスタートでした。

 前から2列目の左から2人目、うつむき加減に写る女性が嶋夫人のよしこ。最前列左から2人目の嶋は、静かにカメラのレンズを見つめていた。

 嶋には夢があった。朝日新聞社の記者になり、高校野球を取材する夢を古角に打ち明けていた。

 文章を書くことが好きで、ファンレターにもすべて返事を書いた。猛練習で疲れていても、日記を欠かさずつけていた。海草中の部史「輝く球史」に、嶋の文章がある。

 「満天下の愛球家を唸らせたあの全国中等野球も今や昔の夢物語となり万感我等の胸に迫り過去の追憶が走馬燈の様に頭の中をかけめぐるのみである。海草野球魂をいついつ迄も守り続け何れの日にか生まれ代った中等野球をあの名残り尽きぬ懐かしいスタンドの一隅から眺める時が到来するであろう事を信じ期待しつつこの思い出尽きぬ一文を呈して拙筆を終らうと思ふ」

 球児に寄り添い、活躍を、思いを、文章で伝える嶋の夢は、戦争によって奪われた。多くの希望が消える悲しき時代だった。甲子園で活躍し、創世記のプロ野球で輝いていた伝説の選手も悲しい運命が待っていた。京都商から巨人に入団した沢村栄治は、44年12月に戦死。32年夏準優勝の松山商の主力で、大阪タイガース入りしていた景浦将は45年、フィリピンで亡くなった。沢村が27歳、景浦が29歳だった。

 24歳で亡くなった嶋の遺骨は、よしこのもとに戻らなかった。何百万もの人々とともに、嶋は英霊となった。(敬称略=つづく)

【堀まどか】

(2017年8月18日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)


達筆がしのばれる嶋清一直筆の手紙
達筆がしのばれる嶋清一直筆の手紙