1950年(昭25)6月23日。我喜屋優は、沖縄本島の南部、玉城(たまぐすく=現南城市)村で生まれた。その日は「沖縄慰霊の日」でもあった。

沖縄は52年に琉球政府が創設され、米国の軍政下に置かれた。当時は米軍基地、施設が存在した。

小さな田舎村。左手に障害をもった父・加那(かな)は米軍の仕事をしながら手作りの船で魚釣り、母・文(ふみ)は畑仕事をしながら家計を守った。

我喜屋 昔の子供は今の子供と比べて大人だった気がします。海、山が遊び道具で、小遣いをもらって遊ぶなんてことはないから創意工夫する。砂浜に線をかいて三角ベース、山でターザンごっこをした。食べるものは田芋(タームン)かバナナ、たまにご飯がでたが、おかずはない。家の手伝いをするのが当たり前で、親の喜ぶ顔を見るのが楽しかった。今の子供ならつらいと思うだろうが、貧しかったが、貧しいと思わなかった。

陸上、バレーボール、バスケットボールなど、あらゆるスポーツに興味を示した。原始的ともいえる遊びをしていた少年の心をとらえたのが、米軍基地の金網越しにみた光景。それがベースボールだった。

その後、小学4年生の1年間、那覇の老舗伝統菓子店の跡取りとして養子に出される。一転して裕福な暮らしをすることになった。玉城村には電気が引かれていなかったから、初めて那覇で見たテレビに「箱の中に人がいる」と本気で思ったほどの別世界だった。

我喜屋 何不自由ない生活で、なんでも買ってくれたが、海山で育ったわたしには窮屈でした。親の愛情とか、心の支えが恋しくなったんでしょうね。

年明けのお年玉をもらった日に逃げ出した。いったん玉城村に戻った後、我喜屋の家族は那覇市内に引っ越す。古蔵(こくら)中を経て、陸上部から勧誘を受けて興南に進学も、すぐに野球部に入部した。

興南は我喜屋が高校1年生だった66年夏に甲子園初出場を果たした。我喜屋は雑用係の1人として連れて行かれる。当時はまだパスポートが必要だった。沖縄から船で鹿児島に到着し、夜行列車に乗り換えた。片道2泊の旅も初戦敗退。そして3年夏の68年に主将として甲子園に出場、県勢初となる4強進出の快挙を遂げる。

我喜屋 沖縄は特殊な環境に置かれていたので、沖縄頑張れの判官びいきがありました。それがフィーバーに拍車をかけ、地元は優勝ムードでした。私も寝ながら優勝旗の受け取り方を頭に浮かべた。その無心無欲が色気に変わった瞬間、甲子園の魔物がね、それで勝ちが逃げた。今は親がきてワッショイ、ワッショイだから、これでいいのかなと思うことがある。食べるのが大変だったから、そんな時代ではなかった。

沖縄に帰ると那覇港で歓迎式典が開かれ、市内でパレードも行われた。明大進学を希望し、監督の島岡吉郎にあいさつを済ませるが、経済的理由で静岡県内にあった大昭和製紙富士に就職。生まれて初めて仰ぎ見た富士山。その勇壮な姿に心をふるわせた。(敬称略=つづく)【寺尾博和】

(2018年2月3日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)