社会情勢、世相が大きく動いても、甲子園の盛夏が来れば、その一瞬にかける姿に目が止まる。ネガティブ情報が多い時ほど、私たちの目にはひたむきな高校生がまぶしく映る。

公立校や初出場に燃える高校が、地方大会を勝ち進むことに声援を送る一方で、強豪校の戦いにもついつい目が行きがちだ。日大三は固有の野球スタイルを築き、毎年西東京大会で上位に勝ち進む。夏の甲子園大会で2度の全国制覇を果たした全国区の強豪校として、多くの高校野球ファンから愛される。

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元ヤクルト監督の関根潤三氏、球界の寝業師として異彩を放った元西武の根本陸夫氏、高校野球の監督、新聞記者、そしてヤクルト球団代表を務めた田口周氏、日大三高野球部監督を務め高校日本代表監督も歴任した小枝守さん(いずれも故人)など多彩なOBを持つ。野球部を率い同校初となる全国制覇した小倉全由監督(64)が中心にあり、寮生活の中で60人強の部員とともに熱く甲子園を目指す日々を送る。

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代名詞は強打日大三。小倉監督は「練習は嘘をつかない」を座右の銘に、豊富な練習量で打撃に特化したチームをつくる。バントを多用して1点を奪いにいく野球ではない。「打って返す」が根底にある。打力を前面に、完投能力のある主戦投手と、鍛えた上げた守備で、正面から力で相手をねじ伏せていく。その戦い方が多くのファンを魅了してきた。

今春、日大三はセンバツ出場を逃した。関東6枠の最後の枠を秋季神奈川大会覇者東海大相模と東京大会準優勝の日大三が競い、東海大相模が6枠目を手にし、そしてセンバツ大会を制している。

1月下旬、選考結果が発表されると、小倉監督は集まった報道陣が見詰める中で選手に熱く語りかけた。「これが結果だ。力がないから選ばれないんだ。2試合で三振いくつしたとか、どうのこうの言われないよう、ガンガン打てるチーム作ろうや」と声をかけた。 もしかすると選ばれるかもしれない。かすかな望みを持っていた選手からは落胆の色が浮かぶ。室内練習場へ移動する選手たちの後ろ姿をじっと見ていた小倉監督は、具体的な選手名を3人挙げて言った。「お前たちが中心になって練習を盛り上げていけ。いいか、ここから熱くやるんだぞ。いいな」。さきほどまでの冷静な口調から一変した。喉の奥で野太い声が鳴る。これまで叫び続けてきたからこその迫力ある声量が、肩を落としていた選手の背中に飛ぶ。

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ドスの利いたと言えばいいのか、小倉監督の声には高校野球の監督としてすべてを注いできた情熱の証しがある。40年前の1981年、24歳で関東第一の野球部監督に就任した。

関東第一時代の小倉監督は若く、そして熱かった。まだ関東第一が強豪とは言えない時の話だ。放課後、練習に出てこない生徒を探しに出掛ける。街中をぶらついているところをつかまえ、あるいはたばこの自動販売機の前でたむろしているところを逃さない。そうやってグランドに引きずって行った。全力でぶつかり、生徒が反発してもさらに熱くぶつかる、そういう指導で関東第一は力をつけていった。

就任5年目の85年夏、春夏通じて関東第一初の甲子園出場をつかみ、ベスト8に進出する。さらに2年後の87年センバツ大会では準優勝まで勝ち進んだ。生徒を鍛え強くしていく中で、小倉監督には忘れられない場面があった。

宿敵帝京に夏の予選で2年連続で敗退した試合後のことだった。当時の校長がロッカーに入ってくるなり、小倉監督を詰問した。「同じ相手に2年続けて負けるとは今まで何をしてきたんだ」。小倉監督は敗戦の責を負い、校長の言葉を黙って聞いていると、主将が校長に食ってかかった。「負けたのは俺たちの力が足りなかったからだ。監督のせいじゃない」。夏に負けた直後、感情があふれ出ている高校生の言葉は容赦ない。相手が校長だろうが関係ない。鋭く、怒気をはらんだ声が響いた。

小倉監督は即座に主将を激しくしかった。「お前、校長に向かってなんて口をきくんだ」。しかりながら、小倉監督は心の中で泣いていた。後日、当時の心境を話してくれた。「もちろん、目上の人に対する口の利き方があります。やはり、私たちは教育をしているわけですから、それは見過ごせませんでした。叱りました。叱りましたが、私は心の中では生徒の気持ちに涙があふれていました。そこまで思ってくれた子どもたちを、自分は勝たせてやれなかった。何をしてるんだ自分は、という気持ちでした」。

日大三で頂点を極めた小倉監督は、実は監督生活を関東第一でスタートさせていた。その深い縁で結ばれている関東第一と、小倉監督が高校野球の監督生活を始めてから40年後の今春、雌雄を決する巡り合わせが訪れていた。

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春季大会で日大三は決勝に進出。そして関東第一も勝ち上がった。その直後、緊急事態宣言により決勝戦は延期された。その後、日大三の部員から陽性反応が出て5月30日の決勝も2度目の延期になり、事態が落ち着いた6月21日に、ようやく決勝戦開催にこぎつけた。

関東第一の米沢監督は小倉監督の教え子になる。小倉監督は「教え子の率いる学校と対戦するなんて思わないですよね。それも(以前監督を務めていた)関東一との決勝ですから。めったにないことですよね」と、相好を崩した。

6月21日、府中市民球場には試合開始3時間以上前から熱心なファンが並び、内野スタンドは感染症対策のため席の間を取ったこともあるが立ち見がでるほどの高校野球ファンであふれた。

試合は関東第一が5―0で快勝した。完敗を喫した試合後の小倉監督の顔は明らかに紅潮していた。教え子との決戦に2安打0封負けを喫し「試合になりませんね」と言って笑ったが、目の奥から強烈な闘志を燃え上がらせているようだった。

「米沢監督もいいチームを作ってますね。こちらが学ぶことが多かったです。関東第一とは東西に分かれている中で、こうして決勝ができてうれしいことです」。終始教え子の勝利に敬意を表した言葉を並べたが、今すぐにでもバスで学校に戻り、練習をはじめそうな、そんな気迫を全身からみなぎらせていた。

チームから陽性反応の生徒が1人出たことで5月20日から6月4日まで寮を閉鎖して各自が自宅での練習に限定されていた。完敗に関し、練習量不足を質問されると即座に言った。「影響はないです。それを言ったらキリがないです」。丁寧な口調だったが、明確に否定した。

昨年、緊急事態宣言で公立校が練習自粛になった時、小倉監督は私立との練習量の格差を念頭に「公立ができないのに、私立だけ練習するのは不公平という見方もあると思うんです。自分も心苦しい。それでも、夏にかける生徒の気持ちを考えれば、練習できる幸せを感じながら全力でやるしかないんです」と、言った。それだけに、決勝の敗戦理由にコロナ感染を言い訳にしたくなかったことが見て取れた。

日大三は01年と11年に全国制覇している。一部のファンの間では10年周期と言われ、くしくも今年21年がその周期にあることから、日大三の躍進がささやかれている。01年は同時多発テロ(実際は甲子園大会終了後の9月に起きている)があり、11年は東日本大震災があった。21年はいまだ感染症に振り回される国難の年だ。

こうした鬱屈した時こそ、闘志むき出しの小倉監督率いる日大三が、全国の強豪と正面から火花を散らしてぶつかりあう試合が見たい。勝っても負けても、その堂々たる戦いぶりの中に、私たちは湧き上がるさまざまな感情と向き合えるのだ。【井上真】

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