昨秋の近畿大会。
和歌山東は準優勝を果たし、春夏通じて初の甲子園出場を確実にした。
その直後。副部長の山根翔希(25)は、選手たちに語りかけた。
「1球の重みをしっかり感じろ。お前らには同じ経験はしてほしくない」。
憧れの聖地は、ときに残酷な表情を見せる。
あの夏、8年前の甲子園。延長の熱戦が、思わぬ形で幕を閉じた。
たった1つのプレーが試合の行方だけでなく、人生さえも左右することがある。
◆山根翔希(やまね・しょうき)1996年(平8)8月21日生まれ、和歌山県紀の川市出身。小学1年の時に東貴志ウインズで軟式野球を始め、中学1年から粉河リトルシニアに所属。市和歌山ではセカンドとして1年秋からベンチ入り。桃山学院大では1年秋からレギュラーで、3年春秋にベストナインを獲得。19年に卒業後は、商業科の講師を務めながら野球に携わる。
◆延長12回、崩れ落ちた二塁手
14年8月13日。10年ぶりに甲子園に出場した市和歌山は、初戦の鹿屋中央戦に臨んだ。
1―1で迎えた延長12回裏1死一、三塁。市和歌山の二塁手の前に転がった打球は、イレギュラーに弾んだ。
なんとかグラブに収めた。
さあ本塁でクロスプレーか。観衆が見守るなか、ボールは一塁へ送られた。
サヨナラの走者は、ホームを駆け抜けていた。
「試合が終わってから、はっと我に返った感じでした」
崩れ落ちた二塁手は山根翔希。号泣する背中を仲間に抱えられながら、グラウンドを後にした。
取材部屋の一番隅。大勢の大人に囲まれながら、ふるえる声を絞り出した。
「頭が真っ白になった」。
正午すぎのうだるような暑さ、緊迫したゲームにただよう独特な雰囲気。甲子園の熱気が名手の冷静さを奪ってしまったと、誰もが思っていた。
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「頭では分かっていたんです。対応しきれなかった。まだまだ僕の技量不足だったと、すごく思っています」
3年生でやっとたどり着いたあこがれの場所。山根は試合前ノックから喜びをかみしめていた。
「土の感じも、ちょっと固めでちょうどいい。2試合目やったんですけど、走路もきれいに整地されてて、阪神園芸さんの技術ってやっぱりすごいな、と」
戦いなれた和歌山・紀三井寺球場よりも、ボールは強く転がるように感じられた。
観客席が低く見えるような特有の視界も初めて。大会前の甲子園練習では、悪天候のため内野に入ることができなかったからだ。
◆「打球が速ければゲッツー。遅かったらバックホーム」
1回裏、最初のアウトは山根がつかんだセカンドライナー。次は6―4―3の併殺を狙ったが、わずかにはじいた。「6E」がついてしまった申し訳なさを感じる一方で、体も心もふっ切れた。
県大会5試合でチームの失策はわずか3。なかでも山根は無失策と鉄壁を誇った。
「守備に特化する。生き抜いていくためには、そこを磨くしかない」。
毎日始発の電車に乗り、朝は必ずノック。守備や小技練習にほとんどの時間を費やしたたまものだった。小柄ながら軽快な動き。目を奪われた誰もが、試合の結末を想像できなかった。
12回1死一、三塁で、伝令を送られた市和歌山ナインは中間守備を選んだ。
「打球が速ければゲッツー。遅かったらバックホーム」。
状況判断が求められる指示は、揺るがぬ信頼と信念に基づいていた。
「守り勝つ野球をモットーにやっていたんです。守備練習も一番時間をかけていました」。プロ注目選手も、大型スラッガーもいない。そんなチームが猛練習の末にたどり着いた戦い方だった。
何度もノックを受け、動きは体に染み込ませていた。打球が来た瞬間、アウトにできるイメージがすぐに浮かんだ。
「ベルト付近で捕って、バックホームに投げる」。
しかし打球はわずかに手前で、一塁方向へイレギュラーした。
「捕るのが精いっぱい。ホームに投げようと思ったらもう(三塁)ランナーがすべりかけていた。頭では分かってたんですけど、体がもう流れてますし、反射的に放ってしまった」。
試合後の記憶は残っていない。
バスに乗っていたのか、気付けば宿舎に着いていた。
昼食をとるために食堂のテーブルに並んだが、食欲は少しもわかない。罪悪感だけがこみ上げてきた。
見かねた半田真一監督に、先に自室に戻るよう促されたが、部屋に1人座り込んでも苦しさは変わらない。
「ずっと落ち込んでる、もう抜け殻になったような。何も考えたくない、何もしたくないという状態でした」。
そのまま数十分が過ぎた後、半田監督がたずねてきてくれた。
「お前のせいじゃないから。よく頑張った」。
宿舎の地下にある大浴場へ向かってみたが、やっぱりそんな気持ちにはなれない。きびすを返すと、エレベーターで主将の赤尾千尋と乗り合わせた。
「ありがとうな」。
自室に戻った後も、同級生やOBがさまざまな言葉をかけてくれた。
今ならそのありがたみが痛いほど分かる。それでも当時の心の中は、自分への後悔ばかり。
「どうするべきやったんか」。自問自答を繰り返す日々は、自宅に帰ってからも続いた。
朝起きて、リビングに下りて朝食を食べ、また自室へこもる。何をする気も、何を考える気も起こらない。
部屋から出るのは食事の時だけ。ひと言も発さない息子に、家族の心配は募っていく。
「飯食って、寝て、起きて。ほぼ何も考えない、無の状態でしたね」。どこまでも続きそうな暗闇。
1歩踏み出すきっかけをくれたのは、野球部の仲間たちだった。
◆テレビの取材が運命を変えるきっかけに
甲子園から約10日がたった後。野球部のグループラインに、メッセージが届いた。
「市高で野球部の取材がある」。戦いの後を追ったテレビ取材の呼びかけに全員が応えた。
こんな毎日を過ごしていていいのか…。心のどこかで思っていた山根にも、小さなきっかけをくれた。
見慣れた学校には、変わらぬ仲間たちがいた。取材では高校生活を振り返り、甲子園についても素直に語り合った。
お互いの性格やたわいもない話をたくさんして、笑い合った。
「大学でも野球を続けます」。気付けば、そう口にしていた。
5月の進路面談では、野球は高校で終えて、就職することを半田監督に伝えていた。
明確な進路も、行きたい大学だって決まっていない。
「野球を続けるつもりはなかったんです。けど、テレビで進学しますと言ってしまったので(笑い)。野球したいな、やっぱり一番好きやな、と。その時、感じました」。
つらい記憶ばかりが頭の中を占めていた。
野球は楽しくて、大好きなもの。大事なことを仲間との時間が思い出させてくれた。
秋になると久しぶりに白球を握った。繰り返したのは、キャッチボールや守備練習。
「本能的というか、何かがそうさせました。体が勝手に、守備練習をしよう ! って(笑い)」
◆僕から野球取ったら何残るんやろな
教員を目指したのも、小さなきっかけが始まりだった。
選んだ道が一つ違ったら。和歌山東の副部長になって、甲子園に帰ることはなかったかもしれない。
1つ1つの言葉には、誰よりも説得力があるはずだ。
「経験してる人やからこそ、伝わるものはあると思う」。
忘れられない記憶が残る甲子園。再び目指す未来がぼんやりと浮かんだのは、桃山学院大に進学した直後だった。
「金融関係、IT関係をイメージしていたんですが。履修ができるということで、教員を目指してみようかなと」。
山根が選んだのは桃山学院大の経営学部。4月の説明会で教職課程のカリキュラムがあることを知った。
教職課程は、通常授業とは別に単位を取らなければならない。和歌山の実家から片道2時間の通学中は勉強に費やした。
どれだけハードな毎日でも、野球をやめたいと思うことはなかった。
「僕から野球取ったら何残るんやろなと、すごく思う。野球があるのが僕の人生なのかなと」。
商業科の教員として1年目を過ごしたのは、和歌山・新宮市にある新翔高校。副部長を務めた野球部は、部員わずか10人。全員が全ポジションを守った。
3年生3人が引退すると、山根もナインに混ざり練習試合に出場した。
グラウンドもラグビー部やサッカー部など、4つの部活で共用。限られた環境でも野球は楽しかった。
2年目は熊野高校に赴任し、副顧問として受け持ったのは空手道部。「全然違う競技ですけど、違う視点で競技に携わることができて、いい経験でした」。
生徒と実際に組み合い、勝ったり負けたり。野球好きだった顧問に加え、野球部の監督や部長らも気にかけてくれていた。
◆あの夏の記憶、経験を今度は生徒へ
そして3年目の昨年4月。和歌山東へやってきた。
「周りには持ってるなあ、と言われます。選手の時、甲子園に行かせていただいて、今度は教員として目指したら面白いんちゃうかなという思いがあった。まさかこんな早く経験させていただける可能性があるなんて」。
秋の近畿大会で同校初の1回戦突破を決めると、その勢いのまま決勝へ。快進撃で初のセンバツを確実にした選手たちに目を細めた。
あの夏の記憶は、今でも鮮明に残っている。
「1回から11回はポイントでは覚えてるんですけど、最後の延長12回は映像として、頭の中で全部残ってる感じです。当時の打球の感じ、三塁ランナーがどこまで走ってるか、自分の最後のプレーとか。全部」。
1死一、三塁。練習試合で同じシチュエーションを目の前にすると、今でもフラッシュバックする。まるで、自分がそこにいるかのように。
何度も記憶はよみがえるが、しっかり月日を歩んできた。
実は、あの夏の1カ月後。阪神巨人戦のチケットをもらい、甲子園のライトスタンドへ足を運んでいた。
「セカンドに近い視界なので、ああ、ここで野球してたんかと」。
自然と自分の姿に重ねていた。
あれから8年。今でも、当時の仲間が話題に出すことはあまりない。
さまざまな経験を重ねるうち、少しずつ前向きに捉えられるようになった。
「プレー自体は結果論。なってしまったものはもう仕方ない。それをいかに生徒に伝えられるかが僕の仕事だと思う。僕の甲子園の経験を通して、同じ過ちはしてほしくない。かといって甲子園が悪いわけではない。甲子園をしっかり感じてもらえるように、指導していきたいと思っています」
小柄でも必ず生きる道がある。
猛練習は裏切らない。
甲子園のゴロの弾み方、観客席が低く、外野は広く感じること。
「良くも悪くも、すごくいい舞台であるのは間違いない」。
自分だけの経験を、これからも惜しみなく伝えていく。【磯綾乃】(敬称略)