日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。
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この日は、日本にとって特別な日だった。1945年(昭20)8月6日、広島に人類初の原子爆弾が投下され、約14万人(推計)の人々が亡くなった。80回目の「原爆の日」に祈りをささげたい。
話芸家で知られる山田雅人は、マイク1本とスポットライトで演じる「かたりの世界」で全国各地を回っている。先日、落語でも、漫談でも、一人芝居でもない、その舞台を観てきた。
戦後80年の節目に語ったのは、女性教師と12人の教え子を描いた「二十四の瞳」、「特攻隊の真実」と銘打って戦場で散った2人の野球人を取り上げた「石丸進一物語」「渡辺静(しずか)物語」だ。
これまでもスポーツにとどまらず、芸能、政財界、名勝負など、多岐にわたった題材で語り継いでいる。しかも実際に自身が現場に足を運びながら、関係者に取材を試みているから迫真力が伝わってきた。
名古屋(現中日)の投手だった石丸は、仲間と最後のキャッチボールをして出撃している。“神風特攻隊”となって敵の艦船に体当たりした。朝日軍で2試合に出場した渡辺は沖縄洋上に突っ込んだ。ともに22年間の人生だった。
「職業野球」と称されてプロ野球が蔑まされていた時代を語る山田から何度も出てきたのは、沢村栄治の名前だ。京都商から大日本東京野球倶楽部(現巨人)に入団した大投手だった。
古い写真でしか見たことがないが、高く左足を上げる美しい投球フォームで、史上初のノーヒットノーランを達成し、米大選抜戦でも力投。だが3度の召集の末、乗船した輸送船が撃沈されて戦死した。
山田の語りには登場しないが、沢村と同じ時代に生きた選手に景浦将(かげうら・まさる)がいる。松山商、立教大を中退し、36年大阪タイガース(現阪神)に入団。主将に就いた松木謙治郎も同じ年に入った。
職業野球創生期の象徴で「東の沢村」「西の景浦」と言われた。景浦は最優秀防御率(36年秋)、最高勝率(36年秋)、首位打者(37年秋)、打点王(37年春、38年春)を記録。つまり“元祖二刀流”だった。
景浦は「4番三塁」にも座ったスラッガーで、体をねじるように、バットを豪快に振り切った打撃フォームは印象的だ。そして36年12月、職業野球初となった王座決定戦でエース沢村を打ち砕いた。
初の日本一を決める舞台は、洲崎球場(現東京都江東区新砂1丁目付近)だった。景浦は沢村の得意球だったドロップをレフトにホームランを放った。左翼席から場外に飛び出し、ボールは海に落ちたという。
職業野球初の日本一は巨人だったが、ライバル対決は伝説になった。ベーブ・ルース、ルー・ゲーリックとも対戦した沢村の背番号14は永久欠番。シーズン最高投手に「沢村賞」が授与されている。
景浦もまた2度の出征をしたが、ついに母国に帰ってくることはなかった。フィリピン・ルソン島で連合軍に包囲された。食糧も尽き、ジャングルでミミズなどを食べてしのいだが、マラリアに罹患(りかん)し、食糧調達に出たまま行方不明になった。
戦死。29歳。戦争が終わった後、松山の実家に届いた白木の箱の中に入っていたのは、フィリピン戦線で命を落とした景浦の遺骨ではなく、ただの石ころだった。どれだけ無念だったろうか。
今、東京ドーム近くに建立される「鎮魂の碑」には、大戦で戦死した職業野球の選手計69人が祭られる。また野球博物館内には、中等学校、大学、社会人野球を志した選手名が「戦没野球人モニュメント」に慰霊されている。
先人を尊び、歴史に学ぶことがある。世界では内戦、紛争が治まらない。しかし日本はいつもの夏と同じように、球児が甲子園で躍動し、プロ野球で盛り上がっている。
大切な青春の日々を奪われた方々を悼み、歴史を紡いでいく務めを感じ、そして野球にかかわり、楽しむことができる平和をかみしめたい。(敬称略)【寺尾博和】



