プロレスラー大仁田厚が7回目の…そして最後の引退を決意した。全日本プロレスに入門し、1974年(昭49)4月14日に佐藤昭雄戦でデビューした思い出の東京・後楽園ホールで、31日に「さよなら大仁田、さよなら電流爆破 大仁田厚ファイナルツアー」を開催。藤田和之(46)と6人タッグマッチを行う。レスラー人生43年に幕を下ろす大仁田が、還暦を迎え、引退を決めた思いを告白する。第2回のテーマは“邪道”と言われても突き詰めた、代名詞の「有刺鉄線電流爆破マッチ」。

 -◇-◇-◇-◇-◇-

 大仁田は、左膝蓋(しつがい)骨粉砕骨折の重傷を負い、当時所属した全日本プロレスのジャイアント馬場さんから引退を勧告され、85年1月3日に後楽園ホールで引退式を行った。その後、就職を試みたが、学歴が中卒だったことから、幾つかの職を転々とすることを余儀なくされ、生活は厳しかった。

 生きる糧として、プロレス復帰を選び、自ら1989年(平元)にFMWを立ち上げた。同10月6日の旗揚げ戦で空手道場「誠心会館」館長の青柳政司(青柳館長=60)と対戦するなど、当初は格闘技路線だったが、壁を感じていた。その中で、思い浮かんだのがデスマッチだった。

 大仁田 どうにかこうにか足の痛みがなくなって、FMWを旗揚げした。最初は格闘技路線をやった。青柳館長らと戦って…でも、俺は空手家でもないし、道場も持っていないので限界を感じたわけです。そうしたら、FMWを設立して8、9カ月くらいで、もう1つの考え方が浮かんだ…それがデスマッチ。俺は米テネシーで有刺鉄線マッチを見ていたから、こういうものを使えばいいんだと。猪木さんと上田馬之助さんは、1978年(昭53)2月28日に日本武道館で、リング下にくぎ板を置いて日本初のネイル(くぎ)デスマッチをやった。でも有刺鉄線を利用して、もっと新しい、進化したものが出来ないかって考えた時、電流を流して、爆弾をつけられないかと思った。

 それが、大仁田のもう1つの代名詞とも言うべき「有刺鉄線電流爆破マッチ」誕生の瞬間だった。最初の実験を行ったのは…何と日本の公共放送・NHKの東京・渋谷の駐車場だった。

 大仁田 最初に爆破実験をしたのは東京・渋谷のNHKの駐車場。NHKの中に入っている、特殊効果の会社の人に「出来ますか?」って聞いたら「出来ます」って言う。それで実験した、その場で「ノーロープ有刺鉄線電流爆破マッチ」と名前を付けたんです。イチかバチかの賭けですよ、いつも。

 初めてノーロープ有刺鉄線電流爆破マッチを行ったのは、1990年8月4日。場所は汐留で、相手はターザン後藤だった。「やけどとか、すごかったです」と当時を振り返る。「明るく、楽しく、激しいプロレス」を掲げる全日本と、アントニオ猪木(74)が「ストロングスタイル」を打ち出す新日本プロレスの2強が並び立つ日本のマット界に、大仁田は「有刺鉄線電流爆破マッチ」を持ち込んだ。それまで、日本にはなかった異形のプロレスを、人々は「邪道」と呼んだ。

 大仁田 じゃあ、逆に言うけどね、全日本と新日本というものがあって、それに立ち向かうためには新しいものを築くしかなかった!! (格闘技路線の)UWFは、プロレスの否定から入ったけれど…俺は何もプロレスを否定していない。肯定から入った。プロレスはプロレス…でも、プロレスの中にもジャンルがあっていいだろうと。パンクやハードロックが、あっちゃいけないのか? と。

 後藤との戦いから27年…一部では「茶番」、「プロレスではない」などと批判も受けながらも、大仁田は「さよなら大仁田、さよなら電流爆破 大仁田厚ファイナルツアー」を始めた9月以降、有刺鉄線電流爆破マッチの連戦を繰り広げている。体に有刺鉄線が刺さり、爆破で身を焦がす戦いを、引退間近までなぜ続けるのか?

 大仁田 「猪木さんと上田さんはネイルに落ちなかったけれど、大仁田は有刺鉄線の中に落ちた」って言われるよね。電流爆破は怖いよ…いつも怖い。でも、やっちゃう自分がいる。でもね、世の中…政治もそうだけど、賛否両論はあるわけじゃない? あって、いいと思うよ、俺は。嫌いなものは、見に来なきゃいいんだし、興味があれば1回、見に来いよと。

 -一部では引退ロードの中で開催するノーロープ有刺鉄線電流爆破マッチにタッグ戦が多いことに「なぜシングルマッチをやらないんだ? 体力が続かないからか?」などと批判が飛んでいる。それに対して、大仁田は真っ向から批判する。

 大仁田 シングルは、田中将斗やNOZAWA論外ともやっているよ。でもハードコアは、シングルでは面白くないんだよ。試合の構成を考えるとね…いろいろな人間がリング上にいて、その組み合わせから、さまざまな面白さが出るのがハードコア。だから、タッグでやるんだよ。

 最終回は大仁田が、改めて引退の理由と未来を語る。【村上幸将】