あの人の教えがあったからこそ今がある。北海道にゆかりある著名人たちの、転機となった師との出会いや言葉に焦点をあてた「私の恩師」。函館出身のプロレスラー・グレート小鹿(大日本プロレス会長)は73歳にして今なお、リングに上がっている。その原動力は力士時代の兄弟子で福島町出身の横綱千代の山(享年51)と、日本プロレス界の礎を築いた力道山(享年39)から受け継いだ心技体にある。来年にも74歳まで現役を続けた鉄人ルー・テーズの記録を抜く小鹿が、国内現役最年長レスラーの今を支える2人の亡き恩師について語った。

 恩師の1人目は千代の山だろうな。断髪式を終え、福島町の後援会にあいさつに行った帰りの千代の山と、青函連絡船で会ったのが、縁の始まりだった。

 当時は17歳。湧別の缶詰工場で働いてたんだけど「時間外手当が出ない」という争いがあって、それなら心機一転東京に出ようと思ってね。おふくろに「北海道にいても、ラチがあかない。俺は東京に出るぞ」って言った。バス停まで姉が「行くな、行くな」って追いかけてきてね。バスの後ろの窓から見たら、映画みたいに姉が道路に座って泣いてたなあ。

 青函連絡船の待合室で30円か50円で相撲の雑誌を見ていると、そこに千代の山の後援会の人が来て「あんちゃん、どこ行く」って言う。「埼玉」って返すと「何しに行く?」って。「ここにいてもしょうがないから、一旗揚げに」っていうと、耳元で「あんちゃん、東京ってこわいぞお」って言うわけさ。17歳だもん。ゾッとしたねえ。

 すると「あんちゃん、東京行くんだったら、いい人がいる」って。指をさしたのが、マゲを切ってオールバックにした千代の山だった。「あんちゃん、東京って怖いところだからな。俺についこい!」っていうから、思わず「ハイ」って。

 3年間お世話になったけど、千代の山は厳しいことはしなかった。四股を踏むところから相撲のイロハを全部教わったけど、技術的な部分は、千代の山が上がり座敷に座って、若い衆から関取までの稽古を見て「こうだな、ああだな」と言った内容を、兄弟子から聞いた。石の上にも3年というけれど、3年間まわしを着けて浅草にも行かず、相撲道に一生懸命励んだ。生き方を学んだね。

 2人目の恩師は力道山先生。1人で大きな鏡の前でダンベルを上げていると、後ろから、ポーンと軽く蹴られてね。「いつもやってんのか?」って。実は力道山先生は優しい人なんだけど、みんなが取り巻くと“ええかっこしい”で「オイ」って呼んだりしてたね。

 入門して1年で亡くなったので、教えてもらったことはない。ただ直接じゃなくても、先輩が「お前、そうじゃねえだろ、バカヤロー」って殴られれば「そうなんだ」と、間接的に覚えた。気の短い人でね。言った通りにやると「お前やれるじゃねえか、バカヤロー」ってほめるけど、その通りにやらないと「何回言ったら分かるんだ」って怒る。とにかくプロレスの厳しさを学んだ。

 まわしとタイツは違うけど、裸の商売を60年近く続けてきた。もちろんちょこちょこ体のどこかが痛くなったりはしているけど、大けがは全くない。親元には16歳と数カ月しかいなかったし、その後はずっと他人のメシを食ってきた。面倒を見てくれた千代の山と力道山先生には感謝だな。【取材・構成=中島洋尚】

 千代の山&力道山の足跡 千代の山(本名・杉村昌治)は1942年に16歳で出羽海部屋に入門。49年10月場所で大関に昇進し、同時に北海道出身力士で初の優勝を飾った。51年5月場所の優勝で道内出身力士最初の横綱となった。59年1月場所を最後に引退、九重親方となる。得意技は突っ張り、上手投げなど。幕内優勝6度。引退後は九重親方として横綱北の富士、千代の富士らを育てた。77年に肺を患って51歳で急逝した。

 力道山は16歳の1940年に二所ノ関部屋に入門。46年に入幕、49年には関脇に昇進するも、翌年9月場所前に引退した。52年に米国で特訓を受けてプロレスラーに転身。カナダ人レスラー・シャープ兄弟らとの対戦で注目を集めた。58年には鉄人ルー・テーズを倒してインターナショナルヘビー級王者に輝く。63年のデストロイヤー戦は60%以上のテレビ視聴率を記録した。同年の12月に暴力団組員と路上でもめて腹部を刺され、約1週間後に死去。享年39だった。

 ◆グレート小鹿(ぐれーと・こじか)本名・小鹿信也。1942年(昭17)4月28日、函館市生まれ。17歳の時に千代の山から青函連絡船内で誘われ出羽海部屋入門。62年に三段目で引退し、力道山を慕って日本プロレス入り。67年に渡米し、現地のプロレスでヒール役として人気を博す。帰国後の73年に全日本プロレス入り。88年に一時引退するも、95年に大日本プロレスを立ち上げ、社長兼レスラーとして現役復帰。73歳は日本の現役レスラーで最年長。家族は妻。182センチ、95キロ。