【オリックス週間①独占手記:清原和博】「どんなことがあっても、最後まで人生のフルスイングは続ける」

ウィークデー通しのオリックス特集。第1弾は、2008年に引退した清原和博内野手の独占手記です。結びの段落…14年たった今も信じている野球好きがたくさんいます。(2008年10月2日掲載。年齢、所属などは当時)

傑作選

日刊スポーツ

オリックス清原和博内野手(41)が1日、地元大阪でプロ23年間の現役生活を終えた。ソフトバンク戦(京セラドーム大阪)に「4番指名打者」でフル出場。6回の3打席目には右中間への適時二塁打で激走した。一時代を築いた男が、独占手記で明かした次なる夢は“最強監督"―。ただし、当面は「気持ちのリセット」のため、四国八十八カ所巡りを本気で考えている。クライマックス・シリーズには参加せず、来季はグラウンドの外から、プロ野球を見つめることになる。

2人の子どもを抱きしめる

2人の子どもを抱きしめる

▷悪くない「無冠の帝王」

もう感謝の気持ちでいっぱいです。23年間も大好きな野球をやれたのは、ファンの方をはじめ、いろんな人の支えがあったからです。

少し休んで落ち着いたら、お遍路さんの四国八十八カ所巡りをやろうかな、と。お世話になったみなさんに感謝の気持ちを込め、この痛んだ足で1歩、1歩ゆっくり時間をかけて歩きながら、野球人生を振り返りたい。1度、気持ちをリセットしないと、次の道へは進めないと思う。

この23年、常に戦ってきた。やっと心と体に「ごくろうさん」と言える日がきたかな。相手投手、時に球団や首脳陣、最後はケガと闘った。プライド持って、意地張って、胸張って、そして泣いて…。うまく言葉では表現できない、波瀾(はらん)万丈の野球人生だった。

現役最終打席はフルスイングの空振り三振

現役最終打席はフルスイングの空振り三振

◆清原和博(きよはら・かずひろ)1967年(昭42)8月18日、大阪府生まれ。PL学園では1年から4番を打ち、桑田投手とともに5季連続で甲子園出場。通算13本塁打を放ち、優勝2度、準優勝2度。85年ドラフト1位で西武入団。1年目から4番に座り、打率3割4厘、31本塁打で新人王。96年オフにFA権を行使し巨人移籍。通算525本塁打は歴代5位。サヨナラ安打20、サヨナラ本塁打12、196死球、1955三振は歴代最多。西武と巨人でリーグ優勝10度、日本一8度。05年オフに巨人を自由契約になり、オリックス移籍。08年現役引退。現役最終年は188センチ、104キロ。右投げ右打ち。

リーグ優勝10度、日本一8度。タイトルをとれなかったのは力不足だけど、勝つための4番だったプライドはある。最近は「無冠の帝王」の響きも悪くないと思えるようになった。三振数、死球数(ともに通算1位)も誇れる。フルスイングし、ボールからも逃げなかった。

ここ数年は正直、引き際ってなんやろって迷った。これまで引退しようと思ったのは、1度や2度ではなかったからね。

昨年7月、左ひざの軟骨移植手術を受けた。この手術で復帰したスポーツ選手はいないという。これでグラウンドに立てたら、納得できるかなと。

ひざの故障は難敵やったからね。普通は点滴しながらベットで手術室へ行くけど、鏡の前で打席に立つ構えして、先生に頼んで、歩いて手術台に乗った。絶対に、もう1度打席に立つんやと言い聞かせてね。

▷とがった鉛筆の芯

麻酔で意識はなかったけど、かなづちでたたきながら骨を削ったから、体や骨が覚えている。夢の中でも体がひびいて起きる。ガンガン、ガンって激痛が走る。リハビリで動けるようにはなったけど、足がパンパンに腫れ、思うようなバッティングもできへん。イラだって酒飲むと、また足が怒ってパンパンやったね。

まともに歩けない状態で打席に立っていいのか。そういう葛藤(かっとう)もあったし、何よりベンチに座っているのがつらかった。

試合前、ベンチで両親(父・洋文さん、母・弘子さん)と写真に納まる

試合前、ベンチで両親(父・洋文さん、母・弘子さん)と写真に納まる

野球人生で、こんなにベンチにいることなかったから。やっぱり己と戦うのが一番、しんどかった。「もう解放してくれや」って自問自答すると、涙が出てきたりね。

35歳すぎたあたりからは“とがった鉛筆の芯"のようやったなあ。練習で体が悲鳴をあげるまで追い込んで、タバコもスパッとやめ、禁酒した時期もあった。すべて野球のためと極限まで心身を追い込んだ。研ぎ澄ました分だけ、体も心も折れやすくなってたね。

▷仰木監督への感謝

ケガしている時は、2人の息子たちも野球をやりたがらなかった。子供にもう1本のホームランを見せられなかったのは心残りだけど、これだけやったんだと納得はしているね。

数々の監督の下でプレーできたのも財産やね。特に、巨人からオリックスに拾ってくれた仰木さんには感謝している。最後ボロボロまでやろうと思ったのは、仰木さんの、男、野球人としての生きざまがあったからです。

がんと闘いながら、最後までグラウンドに立って、亡くなられた。「あの人に比べたら、オレの足なんか」と常に思ってた。グラウンドに立つことが、最低限の恩返しかなと思いながらね。

巨人時代もケガしてベンチにいる経験をしてきたけど、長嶋監督は、まさに富士山のような人やった。

遠くから眺めたら、どこから見ても日本一。そばにいて見たくないところもあったけど、あの人とは野球に関する感性は同じだった。代打でも、長嶋さんだけは出番が「ここやな」って思うと一致した。やっぱりファンを相当、意識していたと思うな。

ファンの方が今ここで何を求め、何に期待しているか。そういう意識はすごかった。常に周囲の目がある中でプレーしてきたから、無意識にそうなったのかもしれへんけど。オレもその意識は常に持ってやってきたから、今、よく理解できるようになった。

▷無数のDNA

西武時代の森監督には、勝つためには何をすべきかを肌で感じさせてもらった。4番にしてもらった恩人だし、勝てるための4番という意識をもったのは、あの人の影響が大きかったと思う。

PL学園時代の中村監督には、人としてのあいさつだったり、すべての基本を教わった。そのほかにもいろんな監督、コーチのDNAが、オレの血には流れている。だから機会があれば、もう1度、グラウンドに立ちたい思いはあるね。

それぞれの指導者のいいところだけを出せれば、最強になれるんかなとも思うしね。また戦いたいと思うのを待って、勝負したい。

将来のことは分からないけど、どんなことがあっても、最後まで人生のフルスイングは続けたいと思います。本当にありがとうございました。(清原和博)