【代打の神様列伝vol.4/八木裕】「ガッカリするアウトはアカン」 名に恥じぬよう重圧かけ…蘇生

「神様」と呼ばれる側の心理について、詳しく打ち明けてくれています。この上ない褒め枕詞のように聞こえますが、本人はかなり複雑なんですね。発憤して再浮上していく過程の心境まで、興味深い告白です。(2015年3月13日掲載。所属、年齢などは当時。文中敬称略)

傑作選

高原寿夫

◆八木裕(やぎ・ひろし)1965年(昭40)6月8日、岡山県生まれ。岡山東商―三菱自動車水島を経て86年ドラフト3位で阪神に入団。90年から3年連続20本塁打以上。04年引退。通算1368試合、817安打、126本塁打、479打点、打率2割4分7厘。現役時代は182センチ、76キロ。右投げ右打ち。

阪神の「3」といえば八木…の方も多いのでは。細身のシルエットにタテジマが似合う=1992年6月14日

阪神の「3」といえば八木…の方も多いのでは。細身のシルエットにタテジマが似合う=1992年6月14日

★「日刊が最初では?」

「代打の神様」は自然発生的に生まれた言葉かもしれない。それまでは「代打の切り札」と呼ばれていたが、スポーツマスコミが表現するうちに、より大げさな表現になったのでは。神様と呼ばれた当の本人は笑いながら、そう言う。

八木(現阪神2軍打撃チーフコーチ)あれって、日刊スポーツが見出しをつけたんじゃないの? 最初に。「代打の神様」なんて、正直に言えば、気持ち悪いというか、そんなことを言われたら、打席に立ちづらかったですよ。そりゃ、失敗できる空気じゃなくなるから。

八木も、スタメンで主軸を打つ選手だった。1986年(昭61)にドラフト3位で入団してから、着実に成長。一塁、三塁、遊撃、のちには外野も守った。俊足、強肩、好打の3拍子そろった野手だった。

チームの低迷期、唯一、優勝を争った92年には主軸を打ち「幻の本塁打」事件もあった。しかし故障に見舞われ、96年には1軍出場がなかった。

「幻の本塁打」として記憶されるシーン。サヨナラ本塁打の判定が覆り、エンタイトル二塁打に=1992年9月11日、甲子園球場

「幻の本塁打」として記憶されるシーン。サヨナラ本塁打の判定が覆り、エンタイトル二塁打に=1992年9月11日、甲子園球場

八木あの頃はどん底だった。(97年も)契約はしてもらったけど、今年ダメだったら終わりだと思っていました。それまで自分の打撃フォームのVTRを見たことがなかったけど、あのオフは毎日、毎日見た。自分の感覚と実際の動きにある差を埋めようとしていましたね。

★見三振、ポップフライ厳禁

人知れない努力もあり、97年以降、勝負強い代打で復活。マスコミや当時の指揮官・吉田義男から「代打の神様」の称号を得た。

八木認められているとは思ったけど、プレッシャーでもありましたね。とにかく、不細工な打撃はできない。みんながガッカリするようなアウトは、アカンとね。凡退の仕方にもこだわった。本当の話、ポップフライとか見逃し三振とかは、絶対しないように意識した。凡打でも、外野フライとかにはなるように心掛けていた。3、4度続けて打てなかったら重圧がかかった。でも、代打になってからスタメン並み、あるいはそれ以上の力が、自分にあると感じることもあった。そんな打者が控えていたのは、チームにとっても良かったんじゃないですかね。

本塁打の八木裕を迎える星野監督。勝負強さを買い、スタメンで起用することも多かった=2002年

本塁打の八木裕を迎える星野監督。勝負強さを買い、スタメンで起用することも多かった=2002年

八木が少し変わっているのは、代打の神様になって以降も、スタメンで出場していることだ。特に星野阪神で優勝した03年には、ときに4番も務めた。

八木自分では「代打専門」というつもりは、あまりなかった。「代打の神様」と呼ばれたのは、やっぱり阪神の選手だったことが大きいのでは。他球団よりも注目されるから。「代打の切り札」というポジションは、阪神ならではのものと、ボクも思います。

▼代打の神様列伝 連載一覧▼

①川藤幸三

②遠井吾郎

③真弓明信