昔住んでいたアパートの向かいに大きなマンションがあった。その敷地には小さなグラウンドが隣接していた。縦30メートル、幅20メートルほど。両脇には小さなサッカーゴールがついていた。

芝生とサッカーボール、2003年の風景
芝生とサッカーボール、2003年の風景

■サッカーは「共通言語」

夕方となると学校帰りの小学生たちが三々五々、サッカーボールを手に集まってくる。明るくにぎやかな声が響く。そんな声に誘われるように、私もサッカーボールを手に出掛けた。

「一緒にサッカーしようよ」

まだ小学校低学年であろう、かわいらしい子供たちに声をかけた。

「いいよ」

サッカーは地球上の「共通言語」と言われる通り、サッカーボールがあればすぐに子供たちとうち解けた。以来、仕事休みの夕方、グラウンドからの明るい声が響けばボールを手に駆けつけた。

その中に体が小さいけれど、誰よりもサッカーが大好きな子供がいた。名前は「ユウタ」。いったんボールを持てば次々と相手をかわし、ゴールを決めていく。明らかに周りの子供とは違っていた。そのユウタは会うたびにいろんな事を話してくれた。サッカー選手を夢見ていること、ライバル選手のこと、どうしても勝てないチームのことなど。頭の中はいつもサッカー一色だった。

ある日、ユウタが一人で練習していた。そこへ歩み寄り、「1つフェイントを教えてあげる」と声をかけた。当時、浦和レッズのエースFWエメルソンがよく使う足技を繰り返し見せた。後日、グラウンドで会った時、ユウタがうれしそうに声をかけてきた。

「おじちゃんが教えてくれたフェイント、あれ効くね。あのフェイントで抜いてゴールを決めたよ」

屈託のない笑顔につられ、こちらの表情も自然と緩む。忘れられないひと言となった。

それからも時間があれば時折、グラウンドへ足を運んだ。ただユウタと会う機会は次第に減っていった。互いに生活リズムも変わったからだろう。数年後、私はアパートから引っ越すことになった。アパートから去る直前、あのグラウンドが気になり見に行った。誰もいなかった。だが、その脇の坂道で仲間といるユウタの姿を見つけた。

「ユウタ、俺引っ越すことになったから。お前は絶対サッカー選手になれるよ。だから頑張れよ」

唐突ながら惜別の言葉をかけ、ユウタの右手を握った。

FC刈谷のDF長野祐太
FC刈谷のDF長野祐太

■刈谷の右サイドバック

あれから15年、あのユウタはピッチにいた。

全国地域サッカーチャンピオンズリーグ2018、決勝ラウンド。FC刈谷(愛知)の背番号2、右サイドバックは長野祐太(25)だった。

JFL昇格をかけた戦い。11月21日の第1戦、10月の全国社会人選手権決勝で敗れている強敵、松江シティFC(島根)を相手に戦っていた。

右サイドバックとして労を惜しむことなくアップダウンを繰り返す。相手のサイド攻撃に食らい付き、チャンスとみるや縦へ走る。ロングパスをピタリと足元に止める。短くドリブルを入れ、鋭いクロスボールをゴール前へ送る。よどみのない一連の動きに、クオリティーの高さを感じさせた。

1-1で引き分けた試合後、15年という時を経て再会を果たすことになった。チームに取材を求めると、しばらくして「こんにちは!」と小気味良い声を響かせ、控室から出てきた。あの小さな小学生は立派な大人へと変貌していた。

-長野選手の小学生時代を知っています。昔近所に住んでいて、よくマンションのグラウンドで一緒にボールを蹴りましたから

「本当ですか? よく覚えてないです(笑い)」

-浦和のエメルソンのフェイントを教えたら、その次に会った時に「あのフェイントからゴールを決めたよ」って話してくれましたが

「ハハハ。でも、あそこのグラウンドでずっとボールを蹴っていたので」

しばし昔話に花が咲くと、すぐにあの頃のようにうち解けた。屈託のない笑顔は昔と変わらない。

-自分が引っ越す時、ユウタに「サッカー選手に絶対なれるよ、だから頑張れ」って言ったら、こうしてサッカー選手になっていました。JFLはもう少しのところですが?

「JFLへステップアップできたら、僕の目標でもあるので。クラブとしてもJリーグに参入するという意志が固くあるので、僕らがJFLに上がって、と段階が踏めていくようにピッチで表現するしかない」

中学以降は川崎フロンターレの下部組織で育った。そこでプレーに磨きがかかったのだろう。これまでの空白期が長い分、どう過ごしてきたのか聞きたいことは山ほどある。

-攻撃選手のイメージを持っていましたけど、いつからサイドバックに?

「フロンターレの中2まではずっと攻撃的なサイドハーフで出ていたんですけど、中3の時にクラブユースでこっちが一人退場しちゃって、右サイドハーフから右サイドバックに落ちてプレーしたら、10人で勝っちゃった。その時のプレーが監督に気に入られて、そこからサイドバック。だから中3のクラブユースのFC東京戦以来ずっとです」

-サイドバックが天職に?

「そうです。ユースもサイドバックとして認められて上がった感じなので」

-ポジションは前へ変えたいとか?

「いや、もうサイドバックが楽しいので。上がっていけるし。もっと攻撃的に、上がっちゃいけないものではないので。全然上がっていいので、守備もしながらなおかつ攻撃も。得点を取れるサイドバックになりたいです」

神奈川大を経て、東海1部リーグ所属のFC刈谷へ入団して4年目。1年目も4チームで争う決勝ラウンドまで進んだが、あえなく3敗で終了。2年目、3年目は1次ラウンドで敗退している。チームはもちろん、自身にとってもJFL昇格は悲願である。

決定的なラストパスを送るFC刈谷DF長野祐太(左)
決定的なラストパスを送るFC刈谷DF長野祐太(左)

■最終戦に快勝も及ばず

第1戦に引き分けた後、23日の第2戦は同じ東海1部リーグのライバル、鈴鹿アンリミテッドFC(三重)と対戦した。落とせない一戦を1-2と敗北を喫した。2枠の昇格へ自力突破は消滅。迎えた25日の最終戦の相手はJ・FC MIYAZAKI(宮崎)。昇格するには2点差以上で勝利し、さらに松江が鈴鹿に敗れる必要があった。刈谷は前半から果敢に攻めた。前半4分に幸先よく先取点を奪った。主導権を握り、攻め立てた。同33分、相手DFがラフプレーで2つ目の警告を受けて退場。さらに攻勢をかけた。右サイドバックの長野は鋭いオーバーラップを繰り返した。37分、39分と立て続けに右サイドを完全にえぐり、中央へ折り返しのパス。シュートは決まらなかったが、決定的な場面を立て続けにつくった。

直後の40分、刈谷が前半のうちに2点目を奪った。後半にも2点を追加し、おわってみれば4-1の快勝だった。最終戦に臨む松江へ、狙い通りのプレッシャーをかけた。

「もう勝つしかなかったので監督からも(ゴールを)取れという指示だった。前半から高い位置を取って、もう今年ラストの1試合なので、自分の好きな攻撃を出しました。あとは鈴鹿さんに頼むしかないです」

満足そうに振り返ったが、その2時間半後、地力に勝る松江が鈴鹿を2-0で下していた。刈谷にとって09年シーズン以来のJFL復帰は、またしても閉ざされることになった。そして、こちら取材者としてのもくろみも外れた。

サッカーでつながった縁、今回そのハレの日に立ち会ってみたかった。ただ、これこそ真剣勝負ゆえの現実であろう。10月の全国社会人選手権、そして11月の全国地域サッカーチャンピオンズリーグは1次ラウンドに続き決勝ラウンドと、負けられない短期決戦が続く。どれだけ準備したチームでも、ピークの波が合わなければ取りこぼす。そんな難しさをあらためて実感した。

敗れたことよりも、遠い過日のサッカー少年に聞きたかった。

-自分で一番大事にしているところは?

「楽しいが一番大事なので。どんなにうまくいかない試合があったとしても、サッカーが嫌いになることはないので。サッカー取っちゃうと、何もないので正直」

-サッカーをやめようと思ったことはこれまでもない?

「ないです。もう自分の体が動かなくなるまで、限界というまでやりたいと思っています」

-生涯、サッカー少年ですね

「ハハハ、小さい頃からサッカーしかやっていないので」

かつての笑顔が重なる。そんな言葉を聞いているうちに、刈谷サポーターが試合中に歌い続けていた歌詞が頭の中に浮かんだ。

「どこまでも行こう~、道は厳しくとも~、口笛を吹きながら、走って行こう~」

そんな歌のごとく、あのユウタは走り続けてきたのだろう。

【佐藤隆志】(ニッカンスポーツ・コム/サッカーコラム「サカバカ日誌」)

FC刈谷のメンバー
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