今年の正月明け。セレッソ大阪の元スカウトで、03年に56歳で亡くなったネルソン吉村さんを支えた妻多恵子さん(73)は、電話を受けた。「大阪に帰ることになりました。俺、頑張るから。またお世話になります」。大久保嘉人からだった。

その言葉を聞いて22年前の記憶がよみがえってきた。99年秋。長崎・国見高にいい選手がいると知ったネルソンさんは尼崎の自宅を朝早くに出て行くようになった。始発の新幹線で長崎へ。いつも日帰り。帰宅は終電になった。週に2回。そんな生活を1年続けた。J1の15クラブが獲得に乗り出し、大久保が生まれ育った福岡が契約寸前までこぎつけていた。多恵子さんは当時をよく覚えている。

「何度も長崎まで行って口説いたんですもの。わが子よりも、嘉人の方が大事なんか! というほど会いに行っていました」

日系2世としてサンパウロ州で育った。67年に日本リーグ初の外国籍選手としてC大阪の前身ヤンマーへ。柔軟なボールタッチはまるで猫のようで、日本国籍を取得して代表入り。釜本とのコンビで黄金時代を築いた。他クラブからオファーを受けても引退後も指導者、スカウトとして残った。給料は月26万円ほど。多恵子さんによれば、生活は楽ではなかったそうだ。

「チームからお金(交通費)は出ましたが、自腹の時もある。家は火の車で、親に借金をしていました。冬でもグラウンドの片隅で冷たい弁当を食べて、正月は選手権で東京に行くから一緒にお雑煮を食べたこともない。そうやって取った選手ですもの。セレッソに来ると返事をもらった時は本当にうれしそうでした」

C大阪で10番を任され、日本代表に初選出された03年末、ネルソンさんは脳出血でこの世を去った。最後までこう言い続けていた。

「嘉人は大物になる。ただ、てんぐにはなるな」

電話を受けた日。多恵子さんは、自宅にある遺骨に話しかけた。

「生きていたら喜んだやろうね。去年はコロナで応援に行けなかったけど今年は行くね。あの子は根性があるから頑張れるやろ。まだ老け込む年じゃない」【益子浩一】