初優勝を告げる笛がなると、ガッツポーズとともにしゃがみこんだ。ヴィッセル神戸の吉田孝行監督は、次々とスタッフに抱きつかれた。三木谷会長と抱き合い、涙を浮かべた。

「現役最後から神戸で(クラブに関わって)14年。どんな思いって言われても難しいんですけど…。最高です。」

待ち焦がれた悲願を、笑顔でシンプルに表現した。

勝てば優勝の名古屋戦。連動した守備で相手を圧倒して前半に2点。2-1からは選手が体を張って死守。今季の戦いが凝縮された勝利に「選手は最後の笛がなるまで全力で戦ってくれた」と指揮官は感謝した。

信念を貫いた。FW出身らしくゴールにこだわる。細かいパスをつなぐ「バルサ化」を掲げてきたクラブで、ハイプレスから素早くゴールに迫る戦いを選択。「サッカーが体操のように採点競技で、パスを10本つないだら1点であれば、パスをつなぐことに特化するけど、そうではない」。

必要なのは走り続けられる選手。明確な基準があったから年俸が自身の50倍近くといわれる同20億円(推定)MFイニエスタを外すことができた。5季で110試合に出た世界的名手が今季わずか4試合で夏に涙の退団。「クラブの王様」を外して勝てなければ、自身の進退に直結する。それでも決してぶれなかった。

苦難に満ちたサッカー人生だった。兵庫・川西市で育ち、95年の阪神・淡路大震災で被災。日常生活がストップした。当時高3だった吉田は「学校に行かないまま卒業した」。滝川二から横浜Fに入団。99年元日の天皇杯決勝では、1-1の後半に決勝弾を決めた。「すべてをぶつけた」。だがその試合を最後に横浜Fは消滅した。プロになった「ふるさと」が消えた。その悲しみに比べれば、何があっても「別にチームがなくなるわけじゃない」と、思い切ってプレーできた。

08年に加入した神戸でも辛酸をなめてきた。10年12月4日の最終節、浦和戦。敵地で2発を決めて「奇跡の残留」と呼ばれた。掛け値なしのヒーローだった。だがオフの契約更改で、J2降格だったら「クビ」の選択肢があった、と告げられた。「このクラブに未来はあるのか」とこぼした。

神戸で3度、監督に就任。すべてシーズン途中で解任された監督の後釜だった。「就任したいかどうかと言われれば、したくなかった。神戸愛。地元クラブに」。大物監督が来れば、その座を明け渡した。主役ではなく「中継ぎ」だった。

それでも3度目は違った。「クラブやファンからこうして欲しいっていうのはあるかもしれないけど、結局、去るのは監督だけ。妥協できなかった」。昨夏には選手との考えが一致し、ハイプレスの戦術にスイッチ。「覚悟を決めた」。イニエスタの代役で夏に加入したMFマタは1試合出場のみ。欧州CLを2度も制した司令塔を使わないで、勝ち続けた。現実から逃げず、あらがい続け、強い監督に生まれ変わった。

J2降格で「クビ」もあった13年前。奇跡の残留を決めて「次に泣くのは、タイトルを取った時にしたい」と口にした。信念を貫いた先にあったクラブの新しい未来。初優勝に、男泣きした。【永田淳】

◆吉田孝行(よしだ・たかゆき)1977年(昭52)3月月14日、兵庫県川西市生まれ。滝川二から横浜Fでプロ入り。横浜Fの消滅により、横浜に加入して大分、神戸でもプレーした。J1通算356試合53得点。13年の引退後は神戸やJ2長崎で監督を務めた。神戸では17、19、22年と3度監督に就任。